「知らない人の物語」(メモ)

百年の散歩 (新潮文庫)

百年の散歩 (新潮文庫)

  • 作者:多和田 葉子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 文庫

多和田葉子『百年の散歩』*1の「リヒャルト・ワーグナー通り」から。


セネガルダカールで、知らない人の物語を勝手に作ってしまう語り部に出逢ったことがある。レストランでヤッサ・ポワソン*2を食べていると琵琶を丸くふくらましたような楽器を持った男が近づいてきて、わたしの名前を訊くので思わず本当の名前を答えてしまった。するとわたしを主人公にした物語を歌い始めた。関係ないと言えばないのだが、名前をとられてしまうと相手の意のままになりそうで恐い。途中で心付けを要求され、名前を勝手に使われて少し腹が立っていたので、とびきり少ない額を渡すと、語り部はむっとして、つまびく和音も不吉に陰り、歌が嫌な感じで肌にまとわりついてきた。言葉は理解できなくても、主人公が不幸な運命を辿り始めたことがはっきりと感じられた。そこで、あわててチップをはずむと、歌声にぱっと火が灯り、リズムが快適に未来を切り開いていく。主人公は、有形無形の怪物を次々なぎたおして前へと進んでいく。このまま行けば英雄の登場を告げるファンファーレが聞こえてきてもおかしくない。とは言うもののワーグナーではないので、弾き語りがどこまでもせせらぎのように続いてい行くだけで、わたしは幸い、英雄に祭り上げられることはなかった。(p.175)