「兎を抱いたように」

百年の散歩 (新潮文庫)

百年の散歩 (新潮文庫)

  • 作者:多和田 葉子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 文庫

多和田葉子『百年の散歩』*1。「ローザ・ルクセンブルク通り」は、


何も用事はないのだけれど、ただ兎を抱いたように暖かく柔らかい春の日なので、とでもいうような顔をしてぶらぶら歩いていた。本当は用事がないわけではない。そのことにわたし自身気づかないふりをしている。目を細めているので外の光が半分しか脳に入らず、鼻を少し上に向け鼻の穴を大きく膨らまして、甘い大気を吸い込んでいる。外から見たときにそれがどんな顔になっているのか分からないので、ショーウィンドウに映して見ようと、ちょっと足を止めた。するとどういうわけか、わたしの姿は映っていなかった。視線はガラスの表面を通り抜け、中に飾ってある売り物の帽子にぶつかった。かすかに毛羽立った茶色いフェルト状の帽子の半球にそっと添えられた他人の手のように庇がついている。こんな帽子をかぶっても格好がつくのはシャーロック・ホームズくらいだろう。これまで観たいくつかの映画の中で、ホームズを演じるのは毎回別の俳優だった。それぞれ癖のある俳優の顔の特徴を全部洗い落してホームズの脳を包む顔はどんな形をしていたのかを思い浮かべ、その頭にこの帽子をかぶらせてみる。似合う。探偵の顔は、このように無駄のない曲線からできてできていたに違いない。この人にかかるとどんな不思議な現象も理屈で説明できてしまう。pp.116-117)
というパラグラフから始まっている。
「兎を抱いたように暖かく柔らかい春の日」とはどんな陽気だろうか。