Stupid German, Stupid English

百年の散歩 (新潮文庫)

百年の散歩 (新潮文庫)

  • 作者:多和田 葉子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 文庫

多和田葉子『百年の散歩』*1の「ローザ・ルクセンブルク通り」からカット。


ここへ来る途中、頭の中で何かが爆発してしまった女性が電車の同じ車両に乗っていた。背後にすわっていたので、初めは顔は見えず、声だけが聞こえていた。その声はいらだち、高まり、噛みつくように大きくなっていき、こちらの神経をひっかく。初めは誰かと討論しているのかと思ったが、相手の声が全く聞こえないので、思わず振り向いてみると、女は一人すわって空気相手に口論していた。最近は補聴器のようなものを耳につけて電話している人もいるが、この女性の場合は赤っぽい黄色の髪の毛は怒りの渦のように髪型に向かって渦巻いて、耳をむきだしにしている。その耳のかたちは多少変わっていたが、イヤホーンの類は見えなかった。頬が怒りに染まってピンク色になっている。
おそらくアメリカに住んでいる人なのだろうと思わせるような英語にドイツ語がごろごろと混ざり込む。女とにかく怒っている。私は自分が叱られたように首をひっこめた。棒か何かで殴られるのではないかとさえ思わせる勢いだ。しかし彼女の憎悪の対象は人間ではなく、なんとドイツ語文法だった。「ステューピッド・グラマー! 電車は男ですか、女ですか。ばっかじゃないの! どうして名詞に性があるの? もしあるなら、あたしの性はどうなるの? あたしはね、ドイツ語を話す義務なんか全くない。だから話しませんよ。確かに文法基礎を勉強してますよ。基礎っていうもの自体に興味があるんでね。でもドイツ語に興味があるわけじゃない。ふざけんじゃないよ。」わたしは思わずかっとして、「性を失った英語の方がよっぽどステューピッドでしょ」と言い返してやりたくなった。そして、そのような攻撃性が自分の中にあることに驚いた。英語に対する恨みは全くない。無防備でいる時に思いがけない場所を傷つけられたことへの発作的反応だったのかもしれない。この小さな出来事は絶対あの人の報告しなければと思う。(pp.121-122)