或るオリエンタリズム

狂うひと :「死の棘」の妻・島尾ミホ (新潮文庫)

狂うひと :「死の棘」の妻・島尾ミホ (新潮文庫)

  • 作者:梯 久美子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/08/28
  • メディア: 文庫

梯久美子『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ*1から。
島尾敏雄吉本隆明について。


吉本は島尾が作品を発表し始めた昭和二十年代から島尾文学を高く評価してきた。長年にわたって書き継いだ作家論、作品論をまとめた『島尾敏雄』(平成二年刊)という著作もある。島尾夫妻と浅からぬ交流があり、昭和二十九年十月と翌年二月、三月の三度、奥野健男とともに、当時、東京・小岩にあった島尾の住まいを訪ねている。島尾の情事を発端とする夫婦のすさまじい諍いがすでに始まっていたころだ。この二度目の訪問の際に吉本は島尾のファンの女性をともなっており、その人はのちに吉本の夫人となっている。
吉本はその後、島尾がミホに付き添って入院した国府台病院の精神科病棟にも奥野とともに見舞いに訪れている。また、昭和三十年十月十七日、夫妻が奄美大島へ発ったときに横浜港で見送った数少ない友人のひとりであった。このとき夫妻を見送った島尾の文学仲間にはほかに庄野潤三吉行淳之介阿川弘之奥野健男武井昭夫がいる。
吉本は、見送りの人たちが投げたテープ*2を島尾がうまくつかむことができないのを見て、テープを手に船腹をつたって甲板によじのぼった。(後略)(pp.19-20)

吉本は当初から(そしておそらく最後まで)島尾とその作品に対して深い敬慕の念を抱いていた。吉本は平成二十四(二〇一二)年三月十六日に死去したが*3、その前日に病室を見舞った評論家の芹沢俊介によれば、ベッドの傍らのテーブルに『死の棘』のフランス語訳の本が置かれていたという。
吉本には南島を論じた一連の著作がある。私は平成十四(二〇〇二)年から十七(二〇〇五)年にかけて吉本の著作三冊の聞書きを担当したが、あるとき日本文学でもっともすぐれた作家は誰だと思うかと尋ねると、島尾敏雄小島信夫という答えが返ってきた。即答であった。
私が島尾夫人であるミホに興味をもっていると話したところ、吉本は、すでに不自由になっていた足を引きずって書斎へ行き、『南島論』と題された単行本の分厚いゲラ(校正刷り)の束を手に戻ってきた。南島について書いたものをあらためて一冊にまとめる準備をしている最中だといい、「しばらくは手をつけませんから、よかったら持ち帰ってご覧ください」と言って貸してくれた。そこには「聖と俗――焼くや藻塩の」*4も収録されていた。
そのとき吉本は、自身の南島論には島尾ミホの存在に触発された部分があると話した。そして、「あの人は、普通の人には見えないものが見えるらしいですよ」といたずらっぽく言い、「いまのうちぜひ話を聞いておくといいと思います」と、奄美に行くことを勧めたのだった。(pp.21-22)
死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

  • 作者:島尾 敏雄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1981/01/27
  • メディア: 文庫
吉本隆明奥野健男による「南島」と「島尾ミホ」像の構築。
先ず参照されるのは、


奥野健男「『死の棘』論――極限状況と持続の文学――」『群像』1977年一月号
吉本隆明「〈家族〉」in 『吉本隆明著作集9――作家論III』、1975


である(pp.65-66)。


奥野と吉本はまったく同じ構図で〈島尾―加計呂麻島―ミホ〉の関係を規定している。海の向こうのヤマトから島を守りに来た「ニライカナイの神」(奥野)「ニライ神」(吉本)である島尾を、島を代表して「仕える」(奥野)「むかえる」(吉本)のがミホだというのだ。そして両者とも「巫女」ということを強調している。(p.66)

奥野と吉本はほかの著書でもミホを「南島の巫女」「古代人」などと規定しているが、彼女は代用教員とはいえ教師であり、東京の高等女学校で教育を受けた、当時としてはインテリに属する女性だった。高等女学校卒業後は、病気になって島に帰るまで、日本におけるキノコの人工栽培の基礎を築いた植物学者・北島君三博士の研究所で働いている。
ノロの家系に生まれたことは間違いないが、ノロ信仰は薩摩藩の時代に禁止されている。禁制下で祭祀を続けた集落もあり、大島本島の大熊地区、加計呂麻島の木慈、須子茂などでは戦後までノロが存在したが、ミホが育った集落では「どんなおもかげもとどめてはいませんでした」と本人が語っている(『脈』昭和六十二年「島尾敏雄の文学と生活」)。ノロを継ぐ家柄であったことを両親から教えられたことはなく、『死の棘』に描かれた時期をへて昭和三十年に奄美に帰ってきたあとで初めて知ったという。しかし「ミホ=巫女」というイメージは現在まで一人歩きし、平成二十四二〇一二)年七月刊行の『コレクション戦争と文学9 さまざまな8・15』(集英社刊、ミホの小説「御跡慕いて」を収録)のプロフィール欄には「巫女の後継者として育てられる」という一文がある。
信仰の面で言えば、ミホは幼児洗礼を受けたクリスチャンである。奄美では明治時代にカトリックが入ってきたとき、有力者および知識階級がまず信者となった歴史がある。ミホの母方は最初期に信者となった家のひとつで、ミホの実母も祖母も敬虔なクリスチャンだった。
確かにミホには一種独特の神秘的な雰囲気があり、夢で見たことが現実になったことが何度かあるという話を私も本人から直接聞いているが、それをもって巫女的な存在であるとみなすことはできないだろう。ノロの家系を強調することで、これまで生身のミホとかけ離れた人物像が形作られてきたことは否めない。
奥野はミホを「殆ど霊能者であり、自然そのままの古代人」(前出「『死の棘』論――極限状況と持続の文学――」)と書いているが、奄美ノロ制度は琉球王朝が甘味を支配するために整えた政治的な意味合いの強いもので、統治を宗教的な側面から支えるものだった。統治者の女性のきょうだいがノロの役割を担ったのである。大平家*5はもともと琉球からやってきたユカリッチュとよばれる支配階級であり、そのこととノロの家系であることは切り離すことができない。島尾が「官僚制がくっついているから民間のミコとちょっと違う」と、ほかならぬ奥野との対談(前出「離島の話」)で説明しているように、制度に組み込まれた存在であり、「霊能者」「古代人」という言葉から受けるイメージは実体とはずいぶん違っている。(pp.66-68)
「少女」というイメージ。

(前略)吉本はミホを「島の少女」と表現している。島尾と出会ったころのミホについて書いたほかの文章でも同様である。奥野もまた「島の長の娘の「カナ」と呼ばれる美しい少女の信頼と愛の中に、彼はのめり込む:(前出「『死の棘』論」)というように、ミホを「少女」としている。しかし島尾と出会った時のミホは満年齢で二十五歳である。もとより少女といえる歳ではなく、あの時代では婚期を過ぎた女性とみなされる年齢だろう。事実、戦後に二人が結婚しようとしたとき、島尾の父親が難色を示した理由のひとつは、ミホが歳をとり過ぎていることだった。それでも吉本と奥野の影響力は強く、その後の多くの評論家や研究者がミホを「少女」としてとらえることになる。それは『死の棘』の読み方にも大きく影響していく。
(略)昭和六十三(一九八八)年初版の講談社文芸文庫版『その夏の今は・夢の中の日常』の「作家案内」で、紅野敏郎が「(略)島の少女大平ミホとの恋愛、結婚を内側に深くかかえこんでものであった」と書いているし、近くは平成二十二(二〇一〇)年初版の講談社文芸文庫版『夢屑』の「解説」で、富岡幸一郎が「この少女とのひそかな恋愛は、八月十五日の終戦を経て結婚へと発展する」「特攻の島で出会った可憐な少女が、自らのせいで孤独と狂気へと駆られていった」などとしている。
それにしても、奥野も吉本も島尾と親しい間柄であり、ミホを直接知っているにもかかわらず、島尾と二歳しか違わない彼女を「少女」としているのはどうしたことか。
ひとつには、「少女」という言葉のもつ処女性や若さといったイメージが、かれらが強調したかった「巫女」につながるからだろう。もうひとつは、〈島を守りにきた神である島尾敏雄〉―〈守られる者としての島の人々〉―〈その代表としてのミホ〉という構図の中で、守られる者にふさわしいか弱さ、素朴さ、幼さを、少女という言葉を使うことでミホに付与したということではないだろうか。(pp.68-69)
そういえば、島尾敏雄がこの世を去るのと同時並行的にエドワード・サイードの『オリエンタリズム*6がブレイクしてきたのではなかったか。
Orientalism: Western Conceptions of the Orient (Penguin History)

Orientalism: Western Conceptions of the Orient (Penguin History)

  • 作者:Edward W. Said
  • 出版社/メーカー: Penguin Books Ltd
  • 発売日: 1995/02/23
  • メディア: ペーパーバック