〈関ヶ原〉異変

毎日新聞』の記事;


関ケ原>戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載

毎日新聞 4月4日(月)8時10分配信



 関ケ原の合戦の呼び名は当初、「青野カ原の合戦」だった?−−。京都市右京区の陽明(ようめい)文庫(名和修文庫長)に保管されていた古文書「前久(さきひさ)書状」に合戦直後の様子が詳細に記され、戦いの場所が「関ケ原」ではなく「青野カ原」と書かれていたことが分かった。合戦に関する戦記物などは多数現存するが、合戦直後の1次史料は非常に少なく、専門家は「当時の状況が分かる第一級の史料」としている。

 調査した石川県立歴史博物館館長の藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)が2月、陽明文庫講座(東京大学史料編纂所科研費プロジェクト主催)で発表した。

 藤井教授によると、前久書状は戦国時代の公家・近衛前久(1536〜1612年)が記した。第二次世界大戦前に編集された「編年史料稿本」に書状の一部が収録されていたが、書状全体は公開されていなかった。「陽明文庫叢書(そうしょ)」の編集のため、書状を調査していて確認した。

 前久書状は合戦5日後の慶長5年9月20日に書かれたもので、徳川家康江戸城を出発した日時や小早川秀秋の寝返りなど14項目にわたり、かなり正確に記述されていたことが判明した。

 藤井教授は書状に「青野カ原ニテノ合戦」と記載されていたことに着目。青野カ原は南北朝時代の古戦場として当時から知られていたことや、関ケ原から東北東約8キロの地点にかつて「青野村」(現・岐阜県大垣市青野町)があり、毛利家一族の吉川広家の自筆書状や「慶長記略抄」の狂歌にも関ケ原の戦いが「青野か原」と記載されていると指摘している。また合戦の当事者である家康が合戦当日に伊達政宗に書いた書状で「今十五日午刻、於濃州山中及一戦」と別の表記がされていることなどから、「当初は関ケ原の戦いという呼び方ではなかった」と推測している。

 「天下分け目の合戦」として定着している関ケ原の合戦だが、「関ケ原」の記述が出現するのは主に同年10月以降の島津家の古文書から。藤井教授は「情報量が豊富な今回の史料が出てきたことで、関ケ原の合戦の認識が変わる可能性がある」としている。【岡崎英遠】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160404-00000007-mai-soci

いやはや、歴史的出来事としては「関ヶ原」が一般的であるけど*1地方自治体の名称としては「関ケ原町」が正しい*2。さらに、「関が原」という表記も流通している*3
記事に戻る。詳しくはその近衛前久の書状の文面を読んでみるしかないと思う。それよりも、記事の中の家康の伊達政宗宛の書状に注目したい。「於濃州山中及一戦」。つまり戦闘の最中の家康は自分の軍勢が美濃国の何という場所で戦っているのかという認識はなかった。これは、その他の東軍・西軍の将兵たちにとっても同様だっただったのではないか。一部の美濃国に土地勘があった連中を除いては。それで、「青野カ原」。ここは(記事でも言及されているように)南北朝時代の古戦場として知られていた。「青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)1月20日から1月29日にかけて、美濃国青野原(現、岐阜県大垣市)を含む地域において、上洛を目指す北畠顕家率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、土岐頼遠北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である」*4。正確に何処なのかはわからないけれど「濃州山中」で合戦があったということで、同時代人があの「青野原」を思い出すというのはかなり自然なことだろうと思う。他方、「関ヶ原」に「青野原」と同等の地名としての知名度があったのかどうか。たしかに、現在の「関ケ原町」の域内には壬申の乱の伝承と結びついた不破関があるけど、それが「関ヶ原」と結びついて記憶されていたのかどうかはわからない。関が原の合戦は東軍・西軍の各部隊が陣を敷いた細かい地名がわかっているけど、その対応関係が「青野原」で再現できない限り、合戦は「関ヶ原」ではなく「青野原」で行われたとは言えないと思う。
さて、或る名古屋在住の方によると、織田信長vs.今川義元の「桶狭間」の合戦を巡って、名古屋市緑区豊明市の間で本家争いがあるのだという。但し、名古屋市緑区の「桶狭間古戦場跡」*5豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」*6との距離は「関ヶ原」と「青野原」の距離よりもかなり短い。
Wikipediaの「桶狭間の戦い」から引用*7

桶狭間」の地名は現在、行政的には名古屋市緑区の有松町(旧・知多郡有松町)に大字として残っており、この行政地名は江戸時代の桶狭間村を継承したものである。名古屋市内の「桶狭間」は東海道から南に離れた緩やかな谷あいで、ここから当時の街道沿いに西に進むと、合戦の前哨戦の行われた丸根砦を経て、今川方の最前線である大高城に至る。名古屋市内の「桶狭間」には、今川氏の家臣である瀬名氏俊が戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」など、桶狭間の戦いに関係すると主張される伝承地が存在する。

一方、名古屋市の有松町桶狭間からやや北東、東海道のすぐ傍にある豊明市には、「桶狭間古戦場伝説地」が存在しており、桶狭間の戦いの合戦地として著名である。ここは今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道鎌倉街道)からはやや南に離れてはいるが、鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形である。ここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られており、江戸時代の記録(『守貞漫稿』)にも現れる。

ほぼ同時代の史料に基づいて合戦場を見ると、『信長公記』では今川義元は「桶狭間山」に本陣を構えたと記録されている。

桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。延享2年(1745年)の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年(1781年)の落合村(現・豊明市)絵図において落合村桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されており、現在の豊明市桶狭間古戦場一帯と名古屋市の「桶狭間」の間の山を指していたと考えられる。

一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村のあたりにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「桶狭間山」が16世紀の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではないが、「桶狭間山」は名古屋市内の桶狭間にある丘陵に比定する説もある。

また『信長記』には、今川義元が討たれた場所は「田楽狭間」であったと記されている。

田楽狭間の場所については、尾張名所図会には「田楽が窪を経て三河の堺川の前なる祐福寺へ入る」、「田楽が窪と言える野を行けば山立ち出るよしおどされて」、「あぶりたる山立ちどもが出であいて串刺しやせん田楽が窪」という一節が残っており、これに表される「田楽が窪」は現在も豊明市二村山周辺に大字として残っている。また本来、坪、窪とは窪地や深田である地内を表しており、これを素直に信じるのであれば、当時の鎌倉街道周辺の窪地はこの地を置いて他にないことになる。しかしながら、窪地や深田ではないが、江戸時代から昭和の頃まで名古屋市緑区の有松町桶狭間にも同様の字名が存在していたとされる地(現在の地番は緑区桶狭間北)があり、ここに比定される説もある。

以上のように、同時代の史料からは知多半島から伸びる山地と伊勢湾に繋がる湿地帯により形成された丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの、正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定できない。何れにしろこれらの地形は、兵数の優位を押し下げ、また敵の発見を遅らせる効果を持っており、今川軍に対して不利に働いた。

静岡大学教授の小和田哲男は、「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7mの地点と特定し(この場所は周辺では最高点で、晴れの日には遠く鳴海城や善照寺砦付近まで見渡せるという。また、この場所からだと豊明市の古戦場跡は北の麓、名古屋市の古戦場跡は西の麓になる)、織田軍2,000と今川軍5,000がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったとみて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしている。小和田によれば、「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で、大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『続明良洪範』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市のほうで戦死したのではないかとしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

See also


小林宏行「桶狭間はこっちのもんだぎゃぁ 名古屋市緑区vs.豊明市http://style.nikkei.com/article/DGXBASFD08004_T20C14A5CN8000