「古池やその後飛び込む蛙なし」

沓掛良彦畸人鵬齋」『図書』(岩波書店)841、2019、pp.2-5


江戸の漢詩人、亀田鵬齋*1について。


亀田鵬齋は江戸の折衷学派の儒者井上金峨の門人である。悪名高い「寛政異学の禁」によって儒官の地位を追われ、以後江戸の下町に幃を下ろして子弟に授け、詩を賦し、書画を売って暮らしを立て、大酒を食らっては詩酒に優遊した人物として知られる。幕府による思想統制にほかならない「異学の禁」に異を唱えたいわゆる「寛政の五鬼」の一人で、反骨の人であった。書家としても名高く、絵も描いた(が絵は下手である)。
「儒侠」鵬齋は逸話に富んだ豪放磊落な人物で、江戸人の間で人気が高かったが、何よりもまず酒を好み酒の詩によって名高い。文化十三年の江戸の詩画人の酒徒番付において、東の大関に据えられているだけあって大酒家として名を轟かせ、酒を詠った詩が断然眼を惹く。(略)『東瀛詩選』を編んだ清末の大儒兪樾に「豪宕にして奇気あり」と評された、時に詩法や平仄を蹴っ飛ばしたりもしているその酒の詩は、気宇壮大で愉快なものが多く憂いを払う酒伴としてはうってつけなのだが(後略)(pp.3-4)
良寛和尚*2との関係;

鵬齋をめぐる逸話で面白いのは、良寛との交友である。江戸文人の例に違わず、鵬齋もまた各地を遊歴したが、文化八年北遊して越後の文人、学者と交友し、書家としての良寛の名声を聞いて五合庵に良寛を訪ねた。この折良寛はすり鉢で鵬齋に足を洗わせ、鵬齋を驚かせたという話が伝わっている。
鵬齋は書家としても知られ、蜀山人大田南畝が「音にきく大鵬齋か筆の跡」と詠んだほどの書の大家だったが、良寛によって運筆の誤りを指摘され、書法の秘訣を会得したという。世に「蚯蚓体」と呼ばれるくねくねした独自の書法がその特徴だというが、良寛の書に接してその影響を深く蒙り、江戸に帰ってから川柳で、「鵬齋は越後帰りで字がくねりなどと揶揄されたともいう。(p.4)
良寛

鵬齋倜儻
何由此地来
昨日閙市裡
携手笑咍咍
鵬齋応えて、

羨爾能超脱
雖僧不類僧
酒盃千万鈞
談笑一龕燈
去住心無着
人天事可憑
伴我終五獄
彼岸且遅登
また、

ほかに、良寛が五合庵の傍に新しく池を掘り、「新池や蛙とびこむ音もなし」と詠んだので、鵬齋がそれを見て、

古池やその後飛び込む蛙なし
との狂句を詠んだという面白い話も伝わっている。(ibid.)
勿論、松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」のパロディ。
おくのほそ道 (講談社文庫 古 5-1)

おくのほそ道 (講談社文庫 古 5-1)

なお、鵬齋先生の墓は、台東区橋場の称福寺*3