「中原」(メモ)

中国 (暮らしがわかるアジア読本)

中国 (暮らしがわかるアジア読本)

西江清高「「中原」の意味するもの」(in 曽士才、西澤治彦瀬川昌久編『アジア読本 中国』河出書房新社、1995、pp.22-29)からメモ。
ここでいう「中原」とは「黄河中流域」の「洛陽から鄭州あたりの周辺」。西周の頃、「中国」と呼ばれた地域(p.25)。
黄河文明」について;


よく黄河文明と言われる。しかしこれは案外誤解を受けやすい言葉である。なぜなら、新石器時代黄河流域に生まれた文化は、あくまで黄河支流の渭河、汾河、洛河など、またはさらにその支流の小河川沿いの集落を中心にはぐくまれたものだからである。歴史時代を通してみても、代表的な西安や洛陽などの都市がまさに支流沿いに建設されているように、黄河本流に面して発達した都市はいくらもない。
黄河自体は、大洪水の危険のある河川であり、またしばしば交通を妨げる存在でもある。特に黄河下流は、常に氾濫の危険にさらされており、河道自体も大きく変化してきた。歴史時代に治水が進んでその流れもしだいに安定したとはいえ、現在のように渤海に注ぎ込んでいる時期のほか、かつてはやや標高の高い山東地域を南に大きく迂回して黄海に注いだ時期もあった。一方、襲いくる洪水の危険に対して、中原の洛陽や鄭州の地は黄河本流のすぐ南に位置していながら、その間には〓山台地と呼ばれる古来墓所として名高い丘陵地が、絶好の自然の堤防として東西に連なり、ゆえに黄河本流の直接の脅威から逃れてきた。(ibid.)

(前略)今日でも黄河を渡る橋梁の数はけっして十分とはいえず、黄河が南北間の交通をある程度遮断する結果となっている。その橋梁もなかった時代、黄河を洛陽より上流に遡っていくと、まもなく急峻な両岸の地形や急流が障害となって、少なくとも大きな集団が渡河するに適した地点は稀になる。ところが洛陽−鄭州の周辺では、河川と周囲の状況がにわかに穏やかとなり、黄河の全流域の中でも、南北の恒常的な交通が維持できる適所となっている。中原よりさらに下流に下れば、今度は先述した氾濫の脅威にさらされることになる。大局的にみて中原こそ黄河以北と黄河以南との交通の接点となる好条件をもつことが知られよう。(p.26)

(前略)中国考古学では、およそ一九六〇年代までは、その資料が黄河中・下流域で比較的集中して入手されていたことと、一方で、歴史の常識として、中国初期王朝が黄河中流域をめぐって興亡したと考えられることから、新石器時代から秦漢時代までの中国大陸の文化状況を、中原を先進的中心とする一元的、一枚岩的な「中国」像で描く傾向が著しかった。
ところが、一九七〇年代以降、考古資料の収集が南は華中、華南、北は長城地帯以北にまで行き届くようになると、黄河流域を離れた南北の各地で、年代の深さにおいても、文化の系統においても、中原文化の受容ということでは説明できない、自立性の高い新石器文化の存在が明らかになってきた。そのことは、やがて各地で、考古学文化の「地域」区分を見いだそうとする研究を盛んにした。
そして今では、そうした諸「地域」としてのまとまりは、数千年の新石器時代を通してしばしば同じような地理的範囲に継起するばかりでなく、初期王朝時代から春秋戦国時代にいたるまでその影響が残り、春秋戦国時代の各「国」の文化も、新石器時代以来の「地域」の連続の中に捉えられる可能性がいわれるようになってきたのである。そうした自立的な諸「地域」論の認識から、一九八〇年代の中国考古学は、「中国」的文化伝統を。「地域」の多元性、多様性と、それらが緩やかに統合されている全体の姿として描こうと志向するようになった。そうして、そのなかで「中原」の位置付けも論理的には中国大陸における一つの「地域」として相対化されることになるのである。(pp.27-28)
そうであるにも拘わらず、「なぜ中国の初期王朝は、一「地域」にすぎなかった「中原」をめぐって興亡する結果となったのか」。また「「中原」地域の新石器時代後期の文化的社会的状況は、例えば山東龍山文化や長江下流の良渚文化に比較しても、特別に突出した先進性を示してはいなかった」(p.28)。

(前略)「中原」は、中国大陸のいわば地文的生態的座標の原点近くに位置するということである。そのことは、中原自体の本来的な先進性を意味しないが、中原を、多様な「地域」文化の結節点ないし集積点とする絶好の条件を提供している。「文化進化」もある限界までは単系的な在来文化の枠の中で進行するであろうが、一線から飛躍するとき、そこに異系統の外来文化が重層することが大きな条件となろう。なぜならそれが、複合的でより成層化・分節化の進んだ文化の体系に移行する一つの条件を準備するからである。国家、王朝、都市の成立もしばしばその条件と関係があるのではないだろうか。(ibid.)