「孤独な魂」

承前*1

ロマン優光「福岡セミナー講師刺殺事件に思うこと」http://bucchinews.com/subcul/6313.html


いきなり、加藤智大と造田博が言及されている。「加藤智大は「自分より幸せな人」を殺すために秋葉原に2トントラックを走らせ、造田博は「努力しない人」を殺すために池袋の路上に走り出た」。加藤はともかくして、造田博って誰だ? と一瞬思った。そうか。でも、1999年に起こった「池袋・通り魔殺傷事件」のことはすっかり忘れていた*2
低能先生」によるHagex殺しは「通り魔事件の新しいスタイル」なのだという。


Hagex氏が、松本英光容疑者の生活エリア、彼が自転車でたどり着けるエリアを訪れなかったとしたら、あの事件は起こらなかったのではないだろうか。そのエリアをたまたま訪れてしまったために、容疑者の想像が届く範囲に入りこんでしまうことになり、事件は起きてしまった。そんな気がしてならない。偶然の結果、届かないもののはずが届いてしまったと。そして、松本容疑者ははてなの本社には向かうことはできなかった。

容疑者が本当に憎んでいたのは、彼の妄想の中に潜在する「ネットリンチに勤しんでいる人々」であったろうし、彼のアカウントを閉め出す株式会社はてな、要するに漠然としたはてな界隈というもので、Hagex氏が個人として特別に恨まれていたかというと、そうではないような気がする。容疑者の生活エリアにそれとわかる形で現れたために、容疑者の憎む全てを仮託されてしまっただけであり、Hagex氏は松本容疑者が殺したかった世界そのものの象徴にされてしまったのだろう。容疑者にとってHagex氏は実在の個人というよりは概念に近い存在だったから踏み切れたというのもあると思う。造田の言う「努力しない人」のような。  
加藤や造田は実在する特定された恨みの対象に怒りをぶつけることができないまま、その怒りの対象を特定の対象から彼らの妄想によって生まれた概念に移行させていき、結果として無関係な人々に対して凶行を働いた。松本容疑者も、同じような過程をたどっていったのだろう。ネットリンチを過剰に憎む言動に、彼が最初に本当に憎んでいた特定の存在の影は窺うことはできるが、それが誰であったのかはわからない。わかることは、彼が孤独の中で一人意識を先鋭化させていき、妄想の中で歪んだ正義の概念を育てていったということ、それだけだ。
「孤独な魂」としての「低能先生」;

はてなに限らず、ネット上の色んな場所で救われない孤独な魂を見かけることがある。現実のツラさから逃げ出して、救いをもとめてやってきたネットの世界でも孤独にならざるを得ない人たちだ。たとえ、客観的にはどんなに異常であったとしても、ネットで政治や思想にはまってわめき散らかしているような人は、大きな集団の中にいる意識が与えられるので、主観的には幸せだろう。そんな歪んだ幸せにすら、参加できないような人たちのことだ。
 たとえば、Twitter上で誰彼かまわず直接罵倒し、誹謗中傷を行い、本人だけが信じている事実という実質デマでしかないようなことを撒き散らす人たち。当然ながら、そういうことをする人物は嫌われる。彼らの行っているのは正義の執行ではなく、単なる理不尽な暴力に過ぎないから。当然、反論はされるし、その異常な振る舞いは噂になってしまうだろう。そして、そのことは彼らをより孤独にし、異常さに拍車をかけることになる。「通報は恨みを買わないようにわからないようにこっそりとやれ」という処世術も、結果が出てしまえば、誰かが恨まれるわけで、その誰かも誰だかわからない。ふとしたことで、誰かが行いに値しない憎しみを買うことになる。
何故「孤独」なのかと言えば、それは彼ら(或いは彼女たち)が自我という獄屋に閉じ込められているからだろう。つまり、オンライン/オフラインでどんなに他者に遭遇したかのように見えたとしても、それは妄想的に構築された自分の分身でしかない。

彼らのような人間を救うことこそ、真に必要なことなのだろうけど、彼らのような人達を救う方法は私にはわからない。ただ、陰鬱な気持ちで眺めているだけだ。
たしかに「わからない」。ただ言えることは、そもそもが〈自我〉の問題なので、外から他人が救ってやることはできないだろうとということ、或いは、(この場合)全ての救いは自己救済になるだろうということ、だろう。