「不自由のなかの自由」

齋藤亜矢*1「自由と不自由」『図書』(岩波書店)826、2017、pp.46-49


「自由のための枠」(p.48)。


そして、枠には伝統の枠もある。学生の頃に聞いた能楽師の片山清司(現・片山九郎右衛門)さんの講演が印象的だった。
能の稽古では、とにかく型を覚えなくてはならない。他人の轍を踏むことを強いられるのは、とても苦しい。しかし、世阿弥に「稽古に強かれ、情識は無かれ」という言葉がある(「風姿花伝」)。どれだけ自分をゼロにして吸収できるか。そして、自分のイメージを排することではじめて得られるものがある。不自由のなかの自由にこそ、喜びや創造性がある。
そんなお話だった。つまり、自分独自の表現などを考えるよりも、まずはきっちり枠を身につけることが肝心だ。そのうえで身についた枠を破るとき、はじめて創造がある、ということ。日本の武道や芸能の修業には「守破離」という言葉がある。守る、破る、そして離れるだから、さらにその先に、枠を意識しないぐらいの究める境地があるのかもしれない。(p.49)
花伝書(風姿花伝) (講談社文庫)

花伝書(風姿花伝) (講談社文庫)

さらに書き写しておく;

考えてみると、わたしたちは知らず知らずのうちに、たくさんの枠に囲まれて暮らしている。所属する社会の常識の枠、学校で教えられた知識の枠、つくられた価値観の枠、既成概念の枠、自分のくせや思考パターンの枠、もちろん、枠があるおかげで、安心して社会生活ができる面も大きい。でも、枠のなかだけで過ごしていたら息苦しくなる。そして枠がつねに正しいともかぎらない。
そんなときこそアートだ、と思う。アートには、枠をこわして、新たな価値や新たな物の見方に気づかせてくれる力がある。それは枠の外にいるだれかに暴力を向けるようなものではない。自分自身がとらわれている枠に気づき、それを内側からこわす力をひきだしてくれるもののような気がしている。
ほんとうの自由とは、あらかじめ与えられた状態のことではなく、自分で枠をこわすプロセスにこそあるのではないか。(ibid.)