海の「蝦夷」

寺内浩平安時代の瀬戸内海賊―その実態と系譜―」『歴史書通信』235、2018、pp.2-4


天元5年(982年)2月に伊予守源遠古によって「追討」された海賊「能原兼信」を巡って。


ところで、この時源遠古に討たれた海賊の名は能原兼信。能原という姓は他にあまりみえないが、訓みは「のはら」あるいは「よしはら」であろう。もし、前者であるとすると、想起されるのが、伊予国に移配された蝦夷である吉弥侯部勝麻呂と吉弥侯部佐奈布留の2人に野原の姓を賜ったという、『日本後記』弘仁4年(813)2月甲辰条の記事である。能原=野原であるならば、能原兼信は伊予国に移配された蝦夷の後裔なのかもしれない。
伊予国蝦夷が移されたのは、東北蝦夷とのいわゆる38年戦争の結果である。とりわけ延暦13年(794)に蝦夷の本拠地である胆沢地域が制圧されて以降、蝦夷勢力を分断するため、多数の蝦夷が強制的に各地に移された。四国では伊予国の他に讃岐・土佐国蝦夷が移配されている。なお、吉弥侯部勝麻呂と吉弥侯部佐奈布留に与えられた野原という姓は、居住地が伊予国温泉郡(松山市道後温泉から松山空港にかけての地域)の野原郷だったことによるものである。野原郷は『和名類聚抄』にほみえないが、飛鳥池木簡・西隆寺木簡には、「湯評笶原*1五十戸」「温泉郡箟原*2郷」 とみえている。
こうした移配蝦夷は、その勇敢さが買われ、軍事警察力として用いられることがあった。大同元年(806)には近江国蝦夷が防人に充てられている。また、貞観11年(869)に新羅海賊が博多津を襲った時、「一以当千」の働きをしたので、以後は100人の蝦夷が交替で警備にあたることになった。蝦夷は瀬戸内海賊の盗伐にも用いられた。貞観年間(859-877)は瀬戸内海賊の活動が活発になった時期だが、海賊の跳梁に手を焼いていた政府は、蝦夷を追討兵力として使用するよう瀬戸内海諸国に命じている。
一方で、移配された蝦夷は風俗や習慣が当地の民衆と全く異なる「異文化集団」であったため、移配先でさまざまな摩擦が生じた。播磨国因幡国では犯罪を犯した蝦夷流罪となり。上総国下総国では蝦夷の反乱も起きている。したがって、軍事警察力として用いた蝦夷をコントロールすることは難しかったようであり、盗賊警備のために配置した蝦夷が逆に盗賊になってしまったこともあった。
能原兼信もこうした事例ではないだろうか。つまり、瀬戸内海賊の警備や追討のために動員された蝦夷が、いつのまにか海賊に姿を変えたのであろう。そういえば、藤原純友も当初は海賊追討のために伊予国に下ったのだが、やがて海賊の首領となり、大規模な反乱を起こすのである。(pp.3-4)
蝦夷」といえば陸のイメージで、海軍にせよ海賊にせよ、〈水〉のイメージがなかったので、メモした次第。

*1:「のはら」というルビ。

*2:「のはら」というルビ。