「音だけのことばを、音を持たない人々に向かって」

承前*1

伊藤比呂美*2石牟礼道子のことば 声に出す文芸、紙に叩きつける」http://book.asahi.com/reviews/column/2018030400001.html


曰く、


石牟礼道子という人を、熊本で縁があったこともあり、顔が激似してることもあり、詩的代理母みたいなつもりでいたのである。それでせっせと熊本に帰っては、石牟礼さんに会いに行くということを数年来続けていたのである。その訃報(ふほう)を聞いて以来、自分なりの供養と思って必死に追悼文を書いていた。自分のを書きながら人の書いた追悼文をいくつも読んだ。それがどれも感動的におもしろい。私の見なかった石牟礼さんが現れている。石牟礼さんとの関わりが一人一人とても個人的だったというのがわかる。この「ひもとく」に私なんか出る幕じゃないと思ったが、それを思えば、読み方も生きていた石牟礼さんとのつきあい方も、一人一人違ってそれでいいのだろう。
 全身全霊を傾けて、私は『苦海浄土』をおすすめする。これは必読だ。日本語が、現代文学の中で、どこまで行けるかがよくわかる。その先に大きな穴がぽっかりあいていて、その先が世界文学につながっているのもわかる。人の生きるは死ぬで、死ぬはすなわち生きるだということもわかる。
苦海浄土―わが水俣病 (講談社文庫)

苦海浄土―わが水俣病 (講談社文庫)

また、

「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす」(苦海浄土)というようなことばを読むのはたやすいが、声に出して言うのはむずかしい。石牟礼道子の文学のすごさ(の一つ)は、音だけのことばを、音を持たない人々に向かって、まるで音がありありと見えるように表記して納得させたところである。
 説経節謡曲、声に出して人に伝える文芸はいろいろある。石牟礼さんは、『苦海浄土』から一貫して、そういう声に出す文芸を、力強く紙の上に叩(たた)きつけて、私たちの脳内に、声を再現させてきた。
伊藤/石牟礼の対談、『死を想う―われらも終には仏なり』をマークしておく。ところで、『西南役伝説』が文庫化されていることを知った。講談社文芸文庫
死を想う―われらも終には仏なり (平凡社新書)

死を想う―われらも終には仏なり (平凡社新書)