ハフポスト日本版編集部「「わりとドス黒いことばかり考えています」。三浦しをんに聞く、日々の怒りを誤魔化さない生きかた」http://www.huffingtonpost.jp/2017/12/13/miura-interview-hikari_a_23306678/
遺憾ながら三浦しをん*1の小説を読んだことはないのだった。でも、彼女の小説を原作とした映画『光』公開を契機としたインタヴューはとても面白かった。ちょっと切り抜き。
ネガティヴなものの存在理由?
世の中には、まずい料理やお酒ってありますよね。「どうして食の幸せを追求せず、こんなものを作っちゃったんだよ......」という。でも、いくら頑張っても、まずいモノしか作れない人もいるし、まずいものを食べたことがなければ、おいしいものを本当に「おいしい」とは感じられないんじゃないかな、という気がするんです。
まずい料理や、まずい料理しか作れない人の存在を無視して、美食ばかり求めるのは、なにか違うかな、と。
それと同じで、私はふだんなるべく、人の善良な部分、希望や明るい面について、小説にしたいと心がけているんですが、「人の心って、そんなにいい面ばかりではないよな」という思いも、ぬぐいがたくあります。そこを書きたいなと思って取り組んだのが、小説「光」です。
「暴力」の「回帰性」を巡って;
私は、「光があるから闇がある」といったような二分法が、いまいちピンと来ないんです。善悪ってもっと渾然一体となっていて、だからこそ日常生活の中で、ものすごく残酷だったり鈍感だったりする言動や感情に直面したり、ものすごく崇高な瞬間に遭遇したりするんだと思います。
その渾然一体となった感じ、残酷と崇高がないまぜになって日常が続き、社会が成り立っているという、ある種のやるせなさと人間のたくましさを、役者さんたちのすさまじい演技が体現していると感じました。
これを巡っては、フロイトの「無気味なもの」についての考察を参照すべきかも知れない。
内藤*2:「光」では、津波で島の人がほとんど亡くなってから25年後の世界が描かれます。大人になった主人公の男女たちは、それぞれの生活を営んでいますが、過去の「罪」が彼らに再び迫ってくることからストーリーは急展開していきます。非常に印象的だったのは、小説では、暴力が"返ってくる" という字を使わず"帰る"と表現していることです。"帰"という字を使われた意図をお聞かせください。
暴力とは、天災のようにどこからか降りかかってくるものでなく、人間の心や人間が築き上げてきた社会が生み出すものだと、私は考えます。
暴力も、思いやりも、私たちの心や日常から生み出されたものだから、懐かしい故郷、つまり私たちの心や日常に、帰還してくるのです。
暴力を自分とは全く関係のない、遠いところで起きている事象のように考えていると、いつか、ふいをつかれることになるでしょう。
自分たちが生んだ息子(暴力)なのに、「え、誰?」と慌てふためき、目をそらす。でも、その時にはもう、故郷に帰還してきた暴力を無視することは、どうしたってできないのです。
- 作者: E.T.A.ホフマン,S.フロイト,E.T.A. Hoffmann,S. Freud,種村季弘
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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さて、三浦さんは「そういえば、翻訳小説で単位が「マイル」のままになっていると、「わかりにくいから、キロメートルに直して訳してくれや!」とは感じますね」という。笑ってしまった。時代小説を読んでいて、尺とか貫とか里という単位が出てきたら、わかりにくいからcmとかkgとかkmに直せ! というのだろうか。
そうですね。確かに、個人的にはいつも何かに怒っていますし、主義主張もそれなりにあるし、もっと世の中がこうだったらいいのに、と思うこともある。生きていれば「理不尽だな」と感じることもあります。エッセーは基本的に自分のナマの声なので、わりと率直に楽しかったことや怒りを感じたことを書いています。
そういう、日常で感じた諸々の怒りが、小説を書く原動力になっている面はあるのですが、小説の中で社会や人を評価したり、作者の権限を振りかざして登場人物を断罪したりしたいとは思いませんね。
小説はスローガンではないし、そもそも私が「正しい」と感じることが「間違っている」可能性だって高いわけですから(笑)。
世の中の改善策を考えたり、責任の所在をきちんと追究したりするのは、ジャーナリズムや評論の仕事ではないでしょうか。小説は、あくまで「そういう暴力や悪がある」ということを、物語のかたちで追求し表現するものなのかなと思います。
読者は物語の中の登場人物の気持ちや経験について、思いを馳せます。「自分だったらどうするだろう、どう感じるだろう」と、フィクションを通して、自分以外の人の生を生きることができる。
他者に対する「想像の窓口」になるのが、小説や映画なのではないでしょうか。
*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160225/1456409519