撮影禁止、でも書くことは?

安藤健二「撮影禁止の看板が埋め尽くす秘祭「アカマタ・クロマタ」。石垣島で私が見たものは...」http://www.huffingtonpost.jp/kenji-ando/post_15561_b_17699150.html


沖縄の奇祭「アカマタ・クロマタ」は「西表(いりおもて)島の古見(こみ)のほか、新城(あらぐすく)島の上地、小浜島石垣島の宮良(みやら)」で行われているが、石垣島の宮良を除いては部外者が立ち入ることはできない。宮良では、撮影禁止ではあるものの部外者でもその一部を見ることができる。


彼らの姿は一言で形容すると、顔と手足がついた巨大なパイナップルだ。スマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」に出てくるモンスター「ナッシー」から、3つある顔を1つにした感じとも言える。

ツル草のような物で覆われた丸い胴体に、パンクロッカーのようなツンツンとした髪の毛のようなネギ状の草が生えている。身長は人の背丈よりも、はるかに高く2.5メートルくらいはありそうだ。赤い面をかぶっているのがアカマタ。ヒゲが生えているから男の神だという。黒い面をかぶっているのがクロマタで、こちらは女の神だ。

顔は細長く、丸い目がキラキラと反射で光った。口さけ女のように頬の方まで裂けた口には歯が剥き出しになっていた。鬼のような形相ではあるが、ユーモラスな姿だとも感じた。

撮影禁止ということだけど、文章での表現は何処まで許されるのだろうか。ドキュメンタリー映画作家の北村皆雄氏は西表島古見の人たちが「「アカマタ・クロマタ」の撮影禁止に拘る理由を次のように言う。「年に一度しか訪れない神さまがフィルムに納められたらいつでもどこでも見られることになって、祭りをやることの意味がなくなってしまうのではないかと」。「アカマタ・クロマタ」に会うためには村を出ていった者たちも帰ってこなければならず、それによって村は存続するが、「いつでもどこでも見られる」なら村に帰ってくる必要はなく、村は絶えてしまうと。でも、秘儀伝授というのはそもそもそういうものだろう。天皇即位における大嘗祭に関しても、どんな霊が降りてくるのかも公表されていない。昔はカメラなどなかったので、秘儀が撮影されることなどなかった。そうすると、秘儀の秘密性が侵されるのは参加者がそれを口外することによってだろう。勿論、メモを取ることなど厳禁の筈だけど、実際の秘儀伝授では、後で破棄するということでメモを取ることは常のことであり、さらに多くの場合、メモは後で破棄されることもなく、後世へと伝えられた。最初に 文章での表現は何処まで許されるのだろうかと疑問を呈したのは、西表島古見の人たちが写真撮影に反対するロジックというのが、古代人、例えばプラトンが文字(エクリチュール)に反対したロジックと似ているんじゃないかと思ったからだ。事実、神様のみならず、瞬時に現実から消えてしまう筈のあらゆる出来事、すなわち〈今〉を「いつでもどこでも」存在せしめてしまう仕掛けというのは、絵を描くこととともに、文字にしてしまうことだろう。神様或いは〈今〉は、放っておけば、直ぐに現実から姿を消して、身体に刻まれた〈記憶〉にのみ存在することになる。しかし、文字化すれば、データとして、私の身体から独立した客観的存在となって、外面的現実に存続しつづけることになる。