安徳帝は何処にいるのか問題

安徳天皇陵を訪ねる」http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1023.html


少しメモ。


実は安徳天皇陵とされるものは、公式的には元々存在していなかった。安徳天皇は海中に没したと考えられているのだから、当たり前といえば、当たり前の話だったわけなのだが、明治20(1889)年7月25日に山口県下関市阿弥陀寺陵が安徳天皇の陵墓として決定された。阿弥陀寺陵は安徳天皇が亡くなったとされる壇ノ浦に接している赤間神宮の境内にある。この阿弥陀寺陵が安徳天皇陵として決定されたことについて『明治天皇紀』の明治二十二年六月三日条には「是れより先、条約改正の議起るに際し、伯爵伊藤博文以為らく、万世一系の皇統を奉戴する帝国にして、歴代山陵の未だ明らかならざるものあるが如きは、外交上信を列国に失ふの甚しきものなれば、速かに之れを検覈し、以て国体の精華を中外に発揚せざるべからずと、廟議亦之れを可とす」と述べられていて、安徳天皇陵の治定がきわめて政治的な理由で行われたことを伺わせる内容となっている。
安徳天皇陵」は伊藤博文*1によって剛腕的に下関の「阿弥陀寺陵」に治定された。その結果、安徳天皇については、普通の天皇陵では考えられないことが起こっている。多くの「陵墓参考地」の存続。

前述の通り、安徳天皇陵は明治二十二(1889)年に阿弥陀寺陵 と決定されたが、その前後に宮内省は合計5ヶ所を安徳天皇の陵墓見込地(伝説地)として指定をしている。

 具体的には明治十六(1883)年3月23日に、以下の三ヶ所を『安徳天皇御陵墓見込地』として指定をした。


  ・山口県豊浦郡地吉村
  ・高知県高岡郡越知村
  ・長崎県下県郡久根田舎村


 尚、この三ヶ所はその後「御陵墓伝説地」と名称を改めた。そして明治二十一(1888)年十二月二十六日には、やはり安徳天皇陵を見込んだ「御陵墓伝説参考地」が、この三ヶ所に加えて次の通り指定された。


  ・熊本県宇土郡花園村大字立岡字晩免


 しかしながら、明治20(1889)年7月25日に山口県下関市阿弥陀寺陵が安徳天皇の陵墓として決定された。

 見込(伝説)地にも伝説参考地にも指定されてなかった阿弥陀寺陵が安徳天皇陵として治定されたことは唐突な感じが否めない。

 しかしながら、正式の安徳天皇陵が決まった以上「御陵墓伝説地」「御陵墓伝説参考地」はもはや必要がなくなったはずであり、当然、その指定が解除されて然るべきではないかと思われるが、実際にはそうならず、計四ヶ所の「御陵墓伝説地」「御陵墓伝説参考地」はそのまま継続された。また、それどころか六年後の明治28(1895)年には鳥取県国分町の岡益古墳(石堂)が「御陵墓参考地」に指定された。
 正式の安徳天皇陵が決まった後に安徳天皇陵を見込んだ「御陵墓参考地」が指定されるというのはいかにも整合性に欠ける経過である。

 いずれにしても、今日に至るまで上記五ヶ所は「御陵墓伝説(参考)地」の解除をされることなく『陵墓参考地』として、そのまま残されて現在に至っているのである。

 改めて安徳天皇の陵墓参考地をまとめると以下の通りである。


 安徳天皇陵(宇倍野陵墓参考地)→鳥取県鳥取市国府町岡益

 安徳天皇陵(西市陵墓参考地)→山口県下関市豊田町地吉

 安徳天皇陵(越知陵墓参考地)→高知県越知町横倉山

 安徳天皇陵(佐須陵墓参考地)→長崎県対馬市鴫原町久根田舎

 安徳天皇陵(花園陵墓参考地)→熊本県宇土市立岡町晩免

「参考地」として公認された以外にも、「安徳天皇陵」と伝えられる場所は少なくない。「阿弥陀寺陵」もそうした場所のひとつだった。ところで、宇月原晴明安徳天皇漂海記』を真に受ければ、中国広東省や香港に「安徳天皇陵」が存在してもおかしくはないね。
安徳天皇漂海記 (中公文庫)

安徳天皇漂海記 (中公文庫)