「イスラム教徒」(メモ)

二十世紀を動かした思想家たち (新潮選書)

二十世紀を動かした思想家たち (新潮選書)

ギ・ソルマン『二十世紀を動かした思想家たち』*1、ブルーノ・ベテルハイムを巡る節*2から。
「自分の運命を放棄した収容所の人々」としての「イスラム教徒」について;


この人たちは歩き回る死体であり、非人間的物体となった人たちだ。看守によって外から動かされるだけで、自分で感じることも、考えることも、行動することも、反応することもできなかった。
ベテルハイムは、収容所の全組織が、収容者を”イスラム教徒”にすることを目指していると、いち早く悟った。観察すること、反応すること、何かをすること、許可なしに用便することすらも禁止して、ナチの親衛隊は、収容者たちを物とし、自分の人生を生きられないようにした。
最初の数週間を生き伸びた収容者たちを”古参”と呼んだが、彼らの唯一の現実は収容所の中の生活だけで外の世界はないも同じだった、とベテルハイムは説明する。親衛隊員が期待するものになりきって、古参者は生き延びた。それで親衛隊員を安心させ、争いは避けられる。逆に、英雄的行動は首謀者が属する仲間全員が抹殺されることになった。
収容所に来た”新参”がすぐに学ぶことは、生き残るには、収容所の世界を選び、ナチの価値観を選ぶということだ。そうでないものは、どうしようと死ぬだけだ。”古参””イスラム教徒”の心理同様、親衛隊の心理も観察したと彼は言う。
収容された人の期待に反して、親衛隊員は、気持の通う人々ではなかった。親衛隊に入ることは一つの社会的地位の昇格で、下層階級の出身である彼らは、自分自身に自信がなく、彼等は収容された人、とくにユダヤ人は、ドイツを滅ぼそうとする本当の危険人物と思い込んでいた。したがって、親衛隊員が行使する暴力は、自分自身を安心させるためのものだった。
「私が一番驚いたのは、親衛隊員のサディズムには、まったく想像力が欠けていたことだ。私がウィーン時代に精神分析治療をした患者がみせた加虐の喜びとは較べようもなかった」(pp.115-116)
イスラム教徒」、アガンベン*3の本、例えば『アウシュヴィッツの残りのもの』などでは、「回教徒」と訳されているのでは?
アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

さて、「許可なしに用便すること」の「禁止」;


渡辺一樹*4「降格、暴言…そして「トイレ離席するなら、書類にハンコをもらえ」 50代男性課長が受けた仕打ち」https://www.buzzfeed.com/jp/kazukiwatanabe/20170601-2


Chubb損害保険」での出来事。