「立川」と「慶應」

吉増剛造『詩的自伝』*1から。
吉増氏は東京都立立川高校を卒業している。

それから立川高校っていうのはすぐそばが国立だったりして、大体風土的に三多摩の多摩壮士だあkら早稲田へ行くのが主流なんですよ。東大、早稲田、一橋。弱虫だけど反骨精神があって、先生に「東大受けたら」って言われても、「いや、嫌だ」って言って、誰も行かない慶應へ行くって(笑)。その当時、中国文学をやる人っていうのは吉川幸次郎*2奥野信太郎というのがいるじゃない。奥野信太郎慶應だったのね。だから慶應を受けて、科目が少ないから大丈夫だと思ったんだけど、おっこったら一年浪人して京都大学に行こうかなって。そした慶應に通っちゃって。立川高校からその年慶應は二人しか行ってないな。
慶應って、そういうブルジョワお坊ちゃん学校だっていうんで、立高みたいな蛮カラなところからは差別されてる。そこへ行ったわけね(笑)。でも大学に入って、実際に会ってみて、こんなのはだめだと、中国文学はすぐやめちゃったけどさ。(p.86)

(前略)僕は最初中国文学をやりたいと思ったから、村松暎さんという人が中国語を教えてて中国語をやった覚えはある。だけど奥野信太郎のクラスをのぞいたら、何だ、江戸の通人みたいなやつだ、って感じなの。いわゆる学問的な高貴さ、というか薫りがないのよ。それでがっかりしちゃって。何か応対が悪かったのかな。むろん私のほうが悪いに決まってるんだけどさ(笑)。(p.90)
慶應中文側の反論は?