「テレビ史」的(メモ)

松谷創一郎*1「地上波テレビの葬送曲となった「世界に一つだけの花」──『SMAP×SMAP』最終回が伝えたこと」http://bylines.news.yahoo.co.jp/soichiromatsutani/20161227-00065908/



12月26日に『SMAP×SMAP』が最終回を迎えた。人類は来年からはSMAPのいない世界を生きなければならない。
SMAP×SMAP』はSMAPだけでなく、日本の「テレビ放送史」にとっても重要な存在であったという;


とくに26日の最終回で多くのひとが気づかされたのは、過去に多くの故人が出演していたことだ。「BISTRO SMAP」第1回のゲストは大原麗子であり、それから田中好子坂口良子高倉健伊丹十三中村勘三郎立川談志、そしてマイケル・ジャクソンと、すでにこの世を去ったひとびとが多く登場した。その多くは昭和から平成にかけて一世を風靡したスターばかりだ。

そこから強く感じられたのは、戦後日本のポピュラー文化の中心にあったテレビ放送の文脈が、『スマスマ』によって維持されていたということだ。他国に比べて多チャンネル化が遅れ、それと同時に地上波放送局が90年以降も強い勢力を維持してきた日本では、ポップカルチャーはテレビを中心として動いてきた。音楽や映画など、他メディアもテレビの強い恩恵に授かってきた。

『スマスマ』の放送が始まったのは、バブル崩壊から数年後、日本社会がいまだに抜け出せない長い低迷に突入した頃と重なる。そうした暗い時代の入り口から、『スマスマ』は従来のテレビの明るく楽しい魅力を強く発揮し続けていた。音楽、ドラマ、映画、お笑いと、隣接するさまざまなエンタテインメントの中心に『スマスマ』があったと言っても過言ではないだろう。

ただし、それは2016年1月18日までだった──。

公開処刑」とも呼ばれた1月の“謝罪会見”を経て、『スマスマ』はまるで葬式のような雰囲気のなかで幕を閉じた。

思うに、あれはテレビの葬式だったのだ。ゲストとして「BISTRO SMAP」に来店した多くの故人とともに、『スマスマ』も終わった。すなわちそれは、かろうじて『スマスマ』によって存続してきた地上波テレビ放送が中心だった時代の終わりを意味していたのではないか。

また、

前述したように、『スマスマ』の最終回は、おそらくテレビ放送時代の終わりを意味している。ただし、それは決して“テレビの終わり”ではない。あくまでも“地上波テレビ放送の終わり”だ。

もちろん、地上波テレビ放送は決してなくなることはない。ただ、テレビ放送がポップカルチャーの中心に位置することが、本格的に終わるのである。その背景には、ネット回線を使ったサブスクリプション・テレビ(STV)の存在があるからだ。

2015年から日本でもサービスを開始したNetflixAmazonビデオは、Huluに続いてオリジナルの日本のコンテンツを当初から配信している。フジテレビの『テラスハウス』、吉本興業の『火花』や『ドキュメンタル Documental』、アミューズの『深夜食堂』、NHKの『NHKスペシャル』などである。テレビ朝日サイバーエージェントと組んで始めたAbemaTVや、スポーツ中継専門のDAZNもある。もちろんYouTubeニコニコ動画はそれ以前から人気だ。

地上波テレビ放送は、こうしたさまざまな映像配信サービスによって完全に相対化されつつある。地上波テレビの視聴率の低迷は、多くのひとがSTVで好きな番組を好きなタイミングで楽しんでいるからだ。若年者にそれはとくに顕著な傾向だ。地上波テレビ放送に強い期待をいまだに抱いているのは、STVサービスに疎い高齢者を中心とした層であることも明らかになりつつある。長く続いてきた業界のしがらみに囚われたままの地上波テレビ放送は、今後はニュース番組に特化する方向に舵を切ることを余儀なくされるだろう。

STVのプレイヤーに既存の放送局が多く含まれているように、テレビ局も地上波テレビが相対化されることにはある程度は自覚的だ。既得権を保持したまま、ビジネスモデルを徐々に変えていくことは重々承知している。ただ、そうした状況では、SMAPのような“国民的”といった形容をされる存在は、今後はもう現れないだろう。

逆に考えれば、これまで続いてきた芸能界の悪しき慣習がSTVでは通用しないことを意味する。なぜならNetflixAmazon外資系だからだ。そこでは、日本国内だけで通用する商慣習は機能しない。SMAPのメンバーがもしジャニーズ事務所を辞めて、地上波テレビでの活動を制限されたとしても、いまは十分に活躍の場はある。

ケーブルやBSやCSに続く「多チャンネル化」*2の最新の波であるSTVは「地上波」に止めを刺せるのかという話だけど、実は微妙なところで難しいんじゃないかと思う。(STVも乗っかる)インターネットの発展そのもの難しくさせ、「地上波」を生き延びさせるのではないか。どういうことかというと、ラヂオもそうだけれど、TVはライヴ感というか(同時代性というような緩い意味ではなく字義的に近い意味での)同時性の共有を視聴者に強要する傾向がある。実は、ネットもライヴ感、同時性の共有(の強要)という方向にシフトしている。それは、blogからmicroblog/Twitterへ、或いはPCからスマートフォンへという流れの中に明らかに看て取れるだろう。それによって、ネットとTVはとても相性が良くなってきている。今や、ネット(特にTwitter)はTVと相互補完的な共生関係を実現しているともいえるのでは? TVはネットに対して同時性の焦点、つまりネタを提供し、ネットを取り込むことによってTVはそれまで全く不十分だった双方向性を請け負わすことができるというかたちで。ネットとの共生関係に都合がいいTVの番組形態はヴァラエティやトーク番組、或いはニュースやスポーツ中継ということになり、松谷氏が「ニュース番組に特化する方向」といっているのは多分それと関係があるのだろう。