「命令文」/「記述文」(田崎英明)

ジェンダーで学ぶ社会学

ジェンダーで学ぶ社会学

田崎英明「行為する――行為とジェンダー*1(in 伊藤公雄、牟田和恵編『ジェンダーで学ぶ社会学*2、pp.60-73)から;


言語行為論*3というのは、従来の言語理論が言語をものや事態の記述としてとらえ、それが真であるか偽であるかしか問題にしないのに対して、言語をも世界における一つの行為であり、独自の出来事として理解しようとするもので、その場合問題になるのは真/偽でなく力である。たとえば、「猫がマットの上にいる」という文は、この文(言語)に先立って存在する事態の記述であり、真(本当にマットの上に猫がいる)か、偽(マットの上にいるのは犬である、猫はテーブルの上にいる)かが問われうる。ところが、それに対して、「これから会議をはじめます」や「だれか窓を開けてください」というような文では、会議というものや、窓が開いている状態は、文に先行して存在するのではない。それは、文の結果として世界に出現する。言語を発するという行為が、存在に先立つのである。このような文を「遂行文」と呼ぶ。(後略)
会議の存在が「会議をはじめます」という発話の行為の結果であるように、「男」とか「女」とかいうのも、ある行為、パフォーマンスの結果なのだ(略)「おれは男だ」とか「おまえは女だ」というような文は、一見、事態を記述しているだけの文にみえる。しかし、「野球は九人でやるスポーツだ」という文が」一見記述文のようにみえながら、じつは、野球のルールを示して、「野球をやりたいのなら九人で一チームをつくれ」という命令文であるように、それらの文も、「男であれ」「女であれ」という命令であると受けとれる。そして、事実、多くの人間は、自分でも気づかないうちに、さまざまな記述文(「女の子はこうするものだ」「こうすれば今年は君にも彼女ができる」等々)を命令として受けとって、それにしたがおうと必死に努力をするのである。つまり、男であるとか女であるとかいうことは、存在の問題ではなくて行為の問題なのである。「男であれ」「女であれ」という命令(とそのさまざまな変奏)があり、そして、それに対する応答としての行為(言葉づかい、着る服の選択、恋の仕方、学校や仕事の選び方、等々)がある。このような、行為の連結のシステム、行為の間の呼応として、ジェンダーをとらえることができる。行為の連鎖のうちに、男だとか女だとかいう実体を解体してしまうのである。男トイウモノ、女トイウモノがあるのではない。人はあるときは男としてふるまい、別のときは、男でも女でもない者としてふるまう。そのふるまいをこえて、その背後に、何らかの実体を想定する必要はない。時間の流れを貫いて変わることなく、男でありつづけたり、あるいは、女でありつづけたりするモノなど存在しないのである。(pp.67-69)
また、「フェミニズムと、それに反対する勢力の対立の争点とは、「男である」「女である」というこれらの文を、偽装した命令文と理解するか、それとも、ただの記述文ととるかというところにあると考えることができるだろう」という(p.69)。