千代の富士

北の湖の死の記憶はまだ薄れていないのに*1
NHKの報道;


横綱千代の富士九重親方が死去

7月31日 19時35分

大相撲で31回の優勝を果たし、相撲界で初めて国民栄誉賞を受賞した元横綱千代の富士九重親方が、31日午後4時ごろ、すい臓がんのため東京都内の病院で亡くなりました。61歳でした。

九重親方は昭和30年、北海道福島町で生まれ、昭和45年に初土俵を踏みました。
昭和56年の名古屋場所で2回目の優勝を果たして第58代の横綱となり、前みつを取っての速攻や強烈な上手投げなどで圧倒的な強さと人気を誇り、「ウルフ」のニックネームで親しまれました。
昭和63年には当時、戦後最高となる53連勝、平成元年には通算勝ち星の当時の新記録を作り、相撲界で初めて国民栄誉賞を受賞しました。
平成3年の夏場所の初日に18歳の貴花田、のちの横綱貴乃花に敗れ、3日目に貴闘力に敗れたあと、現役引退を表明しました。優勝回数31回は歴代3位、通算1045勝は歴代2位の記録です。
引退後は九重部屋を継承して大関千代大海など多くの関取を育て、去年、国技館で還暦を祝う土俵入りを披露しました。
しかし、そのあとの名古屋場所を休み、早期のすい臓がんの手術を受けたと明らかにしていました。
そして31日午後4時ごろ、すい臓がんのため、東京大学附属病院で亡くなったということです。
九重親方の遺体は31日午後8時すぎ、病院から車で東京・墨田区九重部屋に戻りました。白い布に包まれた遺体は、九重親方の弟子で、現在は部屋付きの親方を務める元大関千代大海佐ノ山親方など九重部屋の力士たちによって、部屋の中に入りました。

佐ノ山親方によりますと、九重親方の通夜は来月6日の午後6時から、告別式は7日の正午から、いずれも東京・墨田区にある九重部屋で営まれ、夏巡業に参加している九重部屋の力士たちも東京に戻り、参列するということです。


圧倒的な人気と強さの相撲人生

横綱千代の富士九重親方、本名、秋元貢さんは、昭和30年、北海道福島町で生まれ、昭和45年の秋場所、15歳で初土俵を踏みました。
昭和50年に新入幕を果たし、軽量なうえ、肩の脱臼などたび重なるけがに苦しみながらも、厳しい稽古とトレーニングで番付を上げました。
昭和56年の初場所で、当時の横綱北の湖との優勝決定戦に勝って初優勝し、大関に昇進しました。さらに同じ年の名古屋場所で2回目の優勝を果たし、第58代の横綱となりました。
左前みつを取って前へ出る速攻や強烈な上手投げなど、力強さとスピードを兼ね備えた相撲を取って優勝を重ね、引き締まった筋肉質の体と精かんな顔だちから「ウルフ」のニックネームで圧倒的な人気を誇りました。
昭和63年には、休場明けの夏場所から4場所連続で優勝し、当時の戦後最高となる53連勝を果たしましたが、九州場所の千秋楽で横綱大乃国に敗れ、双葉山の69連勝には届きませんでした。
平成元年には、三女を亡くした直後の名古屋場所で、史上初となる同じ部屋の横綱北勝海との優勝決定戦を制しました。さらに、続く秋場所で当時の通算勝ち星の新記録を樹立し、場所後に相撲界初の国民栄誉賞を受賞しました。これを受けて日本相撲協会は、一代年寄を贈ることを決めましたが、本人が辞退しました。
平成2年の春場所で、前人未到だった通算1000勝を達成、その年の九州場所では休場明けで31回目の優勝を果たし、元横綱大鵬の優勝記録まであと1回に迫りました。
しかし、翌場所から2場所続けて休場し、復帰した平成3年夏場所の初日に、18歳の貴花田、のちの横綱貴乃花に敗れ、その2日後に貴闘力に敗れたあと、引退を表明しました。
引退会見では「体力の限界、気力もなくなり引退することになりました」と、涙をこらえながら話しました。通算1045勝と横綱在位59場所は歴代2位、優勝31回と幕内807勝は歴代3位など、20年余りの現役生活で数多くの記録をうち立てた大横綱でした。
引退後は年寄、陣幕を経て、九重部屋を継承し、大関千代大海など多くの幕内力士を育てる一方、日本相撲協会の理事として事業部長などを歴任しました。
60歳になる前日の去年5月31日には、東京・両国の国技館で赤い綱を締めて還暦を祝う土俵入りを行い、露払いに日馬富士太刀持ち白鵬の2人の現役横綱を従えて、現役時代と同じ雲龍型の土俵入りを披露しました。


出身地の町長「多くの町民が悲しんでいる」

千代の富士九重親方の出身地、北海道福島町の鳴海清春町長は、「先ほど、亡くなったことを聞いたばかりだ。今月中旬に東京でお会いして、町で来月10日に行われる九重部屋の合宿には必ず行くからとおっしゃっていたので、とても驚いている。町のヒーローが亡くなり、多くの町民が悲しんでいる」と話していました。


驚きや悲しみの声

札幌市中心部の大通公園や札幌ドームなどで、元横綱千代の富士九重親方が亡くなったことについて、悲しむ声が聞かれました。
釧路市の60代の男性は「ショックです。体は小さかったですが、とても強かったのが印象的でした。あれだけの大横綱が亡くなったのは残念です」と話していました。札幌市の60代の男性は「この前までテレビで見ていたので驚きました。道民の代表のような気持ちでいつも応援していました。天国から、道内出身の力士を見守ってほしいです」と話していました。
また札幌市の30代の男性は「早すぎます。もっと後進の育成に取り組んでほしかったです」と残念がっていました。
札幌市の70代の女性は「驚いて鳥肌が立ちました。若いころにテレビで応援していました。残念です」と話していました。
また、50代の江別市の男性は「驚きです。北の湖千代の富士、歴代の名横綱が次々と亡くなってしまうのは、寂しい気持ちです」と話していました。

東京の渋谷駅前でも惜しむ声が聞かれました。
47歳の会社員の男性は「九重親方横綱時代、千代の富士が好きで相撲のファンになりました。体は小さいのに技の種類が豊富な横綱でした。寂しいです」と話していました。63歳の女性は「体が小さいのに、ウルフという愛称で自分より体の大きな力士と闘っていた相撲を覚えています。まだ若いのに残念です」と話していました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160731/k10010616091000.html

北の湖の次の世代の横綱という印象があったのだけど、2つしか歳は違わないんだね。それにしても若死すぎる。「九重親方」というと、どうしても先代の元北の富士の印象が強く、千代の富士*2には1度だけ、それもネガティヴな言及しかしていないのだが*3、勿論圧倒的に強かったことは事実だ。しかし、千代の富士の相撲で印象が強烈だったのは、数多の勝利ではなく負けの一番。たしか、1984年だったか、小錦との初顔合わせの一番。小錦がpushしまくりで、千代の富士が逃げているうちに土俵を割っていたという感じだった。これは初期の小錦はとにかく凄かったという話。そして、元号が替わった1991年に貴花田貴闘力に敗れて引退。これ以降、角力の世界は本格的に〈平成〉というか、角力的90年代としての〈若貴時代〉に移ることになる。要するに、角力の昭和は千代の富士の引退によって終了したということだ。引退記者会見の「体力の限界!」というフレーズもかなりの流行語となったと思う。現役時代の栄光と比べて、(上の報道でもあまり言及されていないけれど)引退後の晩年は不遇だったと思う。部屋の内紛・分裂に巻き込まれ、それとも関連して、日本相撲協会内の権力闘争も芳しくなかった。