- 作者: 古井由吉
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/05/28
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古井由吉*1「割符」(in 『辻』、pp.81-128)からの抜書き。
(前略)二人ともまだ二十代なかばの、木造アパートの二階の角部屋で同棲し始めた頃のことになる。共稼ぎの、朝には一緒に出かけ晩の帰りは古沢が先になるのと妻が先になると半々ほどの暮らしだったが、妻より先に帰るたびに戸口から、閉めきっていた部屋の内に、自分たちのものではない、先住者のものらしい、体臭のこもっているのが感じられた。部屋にあがって窓を開ければ消える。妻が先に帰っている時には鼻にもつかない。わずか一日留守にしていただけで、畳から染み出るのか、部屋の内をまた満たすとは、さすがに十何年の夫婦者だったそうで、しぶとい体臭の生命だ、と吉沢はそのつど舌を巻いたが、そのうちにすっかり引くだろう、と放っておいた。別れてここを出て行ったとも聞いたていた。妻は臭いに気がついていない様子だった。それで安心もしていたところだが、薄暮のいつまでも残る季節のこと、駅の改札口のところでばったり会った二人が並んで家にもどり、妻が鍵を開けて戸を引くと、内からいつもより濃い臭いが寄せる。一歩内へ入った妻が竦んで縋りついてきた。人が中にいたらしい、と言う。怯える妻を玄関口で待たせ、吉沢は部屋にあがって電灯を点け、さらに安心させるために、手洗いと浴室の扉を開けてのぞいて見せた。ついでに押入れの戸まで引くと、自分たちの寝具から、最後の臭いが溢れ出た時には吉沢もさすがに、先住の男女が別れきれずに、ほかに逢う場所もないので、合鍵を使ってこの部屋に入り、自分たちの布団をおろして交わっているのではないか、と疑いかけたが、住人の入れ換わる際には鍵も付け換えていると管理人は言っていた。妻は白い顔をしておずおずと部屋にあがってきた。
ここは何かが飽和していたんだ、と吉沢が妻に言ったのはその時のことだった。だから、別れたんだ、と付け足したかどうかは覚えていない。これまでにも、吉沢より先に帰った晩に、誰かが中に入っていたようで気味の悪いことがあった、と妻は話した。女の人らしくて、何か思いつめていたようで、とこだわっていた。でも十何年も暮らしていれば臭いも染みつくわね、と押入れのほうへ目をやって黙った。
飽和した、とは言ったが二十代の男には、どちらも四十に近いという先住の男女について何ほどのことも思い浮かべられたわけではない。ただ、妻は初めに畳の上にへたりこんだきり動かない。吉沢も着替えに立とうともしない。腹が空いているのに夕飯の支度にかからず、まるでよその住まいに場を借りているようにして、時間が経っていく。その夜中、一度眠りかけてからまた縋りついてきた妻は抱かれた後で、そう言えば、あなたが熱くなると、押入れのほうから、知らない臭いがしてくることはあったわ、と晩の続きを口にした。やはり女の人だと言う。妻の頼みでもうひとつの錠が戸に取りつけられた。
秋に入った頃には臭いは消えていた。三日も二人で旅行した後に帰って戸を開けてもそれらしい名残も感じられなかった。こんなにも臭わなくなったのは、前の人たち、やっと綺麗に別れられたんだわ、と妻は言った。もしかすると、死んだのかもしれないわ、とつぶやいて吉沢を驚かせた。ここに来てから夏頃まで家にいるとどこか熱っぽくて、よく鼻水を出していたでしょう、と妻は以前のことを振り返ったが、それ以後は先住者の影になやまされる様子も見えなくなった。吉沢はもとより気にも留めなかった。そこでちょうど五年無事に暮らしてから越したのが、ついひと月ばかり前まで住んでいたところになる。(pp.92-94)