カトリックと「煩悩」(小川国夫)

宗教論争

宗教論争

吉本隆明、小川国夫「生死・浄土・終末」(in 『宗教論争』*1、pp.108-155*2 )から小川国夫の発言;


(前略)
私は思うのですが、煩悩のなかに入ってこれをほんとうに引き受けたら、煩悩の海におぼれてしまうものなんですね。まあ一方では、煩悩を引き受けて光明をみるという考えがあるわけですが、それはかなりクレバーな人でないとできないんじゃないかと思う。で、一方、対極には、煩悩というものはもともと破滅的なものだ、そんなものはなければないほどいいんだという考えがありますね。旧約のなかにもあるけれど、悲しみの家へ行くのは喜びの家へ行くよりもいいことだ。つまり葬式の家へ行くのは誕生祝いの家へ行くよりもいいことだっていうんですね。そして、流産した赤子は長寿の人よりどんなにいいか、なぜなら流産の子は煩悩の世界にまみれることを全然知らないで逝ってしまうから、そのほうがいいというわけですね。そういう考えかたは、中世初期の南フランスにあったカタリ派の考え方に受け継がれていると思うんです。そこの信徒は、熱烈になればなるほど死を願って、死は一つの理想状態だという信仰をもったわけです。政治問題などもからんでいたのでしょうが、東方的な非常にファナティックな考えかただというわけで、今日のカトリック勢力として育ってくるもとの勢力によって絶滅させられることになります。それじゃあ一方カトリックのほうはどうかというと、これは煩悩を認めるわけです。しかしあくまでも聖書的な規制はあって、適切な煩悩は認めるというわけです。ドロドロのなかに肺ったら人間はダメなんだ、それをクレバーに整理して適切に煩悩の世界を人間の頭によって統御していけ、と。煩悩の世界でうまく泳げない人間、または煩悩の愛憎がよくわからない人間は宗教のこともよくわからない人間なんだと言っているわけです。しかし煩悩のなかに人間が溺れていったら涯しもないものであって、とても人間は引き受けきれるものではない。(略)それは悲惨なことになるのだというような警告が一方にあるんですよ。(pp.123-125)
カタリ派についてはフェルナン・ニール『異端カタリ派*3を再びマークしておく。ここで小川国夫が述べていることは、より広く〈グノーシス〉の問題として捉えるべきかも知れない*4
異端カタリ派 (文庫クセジュ 625)

異端カタリ派 (文庫クセジュ 625)