「一神教」/「多神教」(土井健司)

キリスト教を問いなおす (ちくま新書)

キリスト教を問いなおす (ちくま新書)

土井健司『キリスト教を問いなおす』*1からメモ。


調度品も壁もすべてが真っ赤な部屋があるとします。そして、この部屋で生まれ育った人がいるとします。この人は生まれてこのかた、この部屋から出たことがありません。したがって、赤色以外の色を目にしたことがないとします。その場合この人は、自分が目にしているのが「赤色」であると認知することはできないはずです。なぜなら、それが「赤」だと分かるためには、別の色との比較が必要だからです。他の色との比較ができてはじめて、自分の目にしているのが赤色だと分かるようになるのです。
一神教もそれと同様です。神が唯一絶対であれば、そもそもその神は何かの「神」としては認知されないはずです。「神」として認知するためには、別の神との比較が必要となるからです。
その意味で、一神教多神教とを比較するということ自体が、一神教を見誤っていると言えます。なぜなら一神教は、そのような比較を絶するものだからです。多神教やさまざまな神と比較された段階で、一神教一神教でなくなり、唯一神唯一神でなくなります。そもそも一神教多神教という宗教学的な分類自体がある特殊な立場からなされたものなのです。この分類は、神の存在を認める有神論的宗教観にもとづいています。この観点から、一神教多神教が同一地平にあるものと論じられるのですが、そのこと自体が一神教の立場からは肯定できないのです。
神が唯一であれば、その神は「何か」として捉えることはできません。つまり唯一の神は、見えないのです。一神教は排他的に一人の神しか見えないのではなく、その神は唯一であるので見えないのです。「排他的に」と言うことができるのは、複数の[神」の中から一つを選び、それを絶対視する場合に限られます。(略)それは、拝一神教ではあっても、一神教ではありません。なぜなら一神教においては、そもそも複数の神が存在してはいないのです。(pp.119-120)
また、

ところで先ほどわたしは、神は「見えない」と言いました。神が「見えない」ということは、「神」を独り占めすることはできない、ということであり、神はある一部の人々のものではなく、万人の神なのです。(p.130)
一神教」と「多神教」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070418/1176869274 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100724/1279932404 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110125/1295933360も。