「骨」から「肉」へ

本村凌二「「欲望の主体」である自己を見つめる」『毎日新聞』2021年3月27日


ミシェル・フーコー『性の歴史IV 肉の告白』の書評。
中原中也*1の「骨」*2の引用から始まる;


ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて
中原中也の「骨」という詩の冒頭の一句である。この「肉」とはフーコー最後の大作『性の歴史』の第IV巻『肉の告白』の示唆するところだろう。なぜ、いつから、どのようにして人間は「肉」を汚らわしいと思うようになったのだろうか。問題は単純なことだが、人間の根幹をなすから困惑することになる。

自己の自己に対する関係のなかで、性的欲望という正体不明の悪徳がきわだってくる。しかも、両性の間の肉体の交わりよりも、自分自身の身体と魂にまとわりつく情欲のうごめきこそが自身にとっての手ごわい敵である。肉体の交わりは「結婚の善」として認められるが、情欲は非意志的なものとして、自己の主体に組み入れられ、自己を脅かす。だから、自分に欺かれないように、たえざる自己点検の深淵が待ち受けているのだ。
フーコーの『性の歴史』全四巻は切れ味鋭い思想史家の太刀捌きによるところ大であるが、歴史学一般の問題設定としては、拙著『愛欲のローマ史』(講談社学術文庫)と佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』(中公新書)を読み比べていただければ幸いである。この巨匠の問題提起が、より身近なものとして理解されるだろう。本村先生の著作では、『多神教一神教』もこのテーマに関連しているのでは?