林永子「見せようとしなければ、見えない、私たちの女性器」http://mess-y.com/archives/20147
浅草のロック座で初めてストリップを鑑賞しましたという話。
ストリップトは直接関係ない部分をちょっとメモ;
たとえ友人とお風呂に入っても、敢えて“見せよう”“見てやろう”としない限り、互いの女性器は見えない(陰毛に隠されていれば、“見せよう”“見てやろう”と四苦八苦しても見えにくいほどだったりする)。トイレで放尿しているところを間近で目撃したとしても、相当開脚しないと全容はお目見えしない。人様の女性器をプリントや映像媒体で見ることはあっても、ストリップのように実物をこうも連続して見る機会は日常にない。ダンサーはステージ上におり、”見せる”ための角度まで開脚したうえにスポットライトで煌々と照らされるから、“見える”のである。私自身の性器も、本人より、私と性交したことのある男性の方が見た回数は多い。そう言えば思春期の頃、自分の性器を、人体の構造上、肉眼で確認できないことが納得いかなかった。超軟体の女性は可能かもしれないので、納得いくまで前屈の特訓をしなかった己の努力不足ということで片付けるが、人間全員が出て来る大事なところが備わっているというのに、本人が目視できないのはどういうわけか。お隠れになられているのは、大事だからこその神の采配か。
しかし、鏡を当てて確認してみた時のあの情けない格好や、一見グロテスクな佇まいをしている造形を前に、「神、もうちょっと工夫の仕様がなかったのかよ」と愚痴をこぼしたものだ。
さて、「女性器」と「男性器」の差異を省察していた会田誠氏も不可視性/可視性ということは考察していないのだった*1。また、この不可視性/可視性という差異は内在性/外在性という差異*2に繋がっているようにも思える。それから、肥満が男性性にダメージを与えるのは男性器の可視性と関係があるともいえるか。
男性は、ぶらぶら外装されている自分の性器も見えるし、人様の男性器も日常生活で見る。翻って女性は、自分や同性の性器を、異性のぶらぶらのごとく肉眼視する機会が少ない。見える性器と見えない性器の在り方は、古より男女の性の意識差を現す大前提の差異である。視覚で受容する情報は、本人が考えている以上に、その精神性に影響を与える。サブリミナル効果と言ってしまうといかにも大げさだが、田舎の田園風景を眺めて育ったものが都会の雑踏に嫌悪感を覚えるように、見慣れないものが近くにあると拒絶反応を示すように、自分から見えない自分の性器の在り方の影響により、【自己と性器の距離が遠い】と感じる女性もいるのではないかと考える。
*1:「「色ざんげ」が書けなくて(その二)」『星星峡』187、pp.70-73 Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130806/1375761335
*2:See eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090804/1249412378