「ねつ造への寛容さ」(不破雷蔵)

不破雷蔵*1「社会に寛容さは必要だが「ねつ造への寛容さ」は要らない」http://bylines.news.yahoo.co.jp/fuwaraizo/20141228-00041865/ 


STAP細胞騒動を巡って山崎行太郎をフィーチャーした共同通信の記事*2への疑問。
先ず、尾木直樹雨宮処凛、行太郎の意見を「並列」する共同通信の文章術への批判;


無論記事の前半では当事者への批判、さらには不正をすぐには見抜けなかった周辺への批評も語られている。しかしそれと「世の中が寛容でないからバッシングが起きている。この風潮は良くない」との意見を並列に表記することで、あたかも両サイドの考えが肩を並べている、同じようなポジションにあるとの誤解を招かせる、あるいは書き手側の意識が見えてくる。

この手法、以前「(1+0)÷2=1/2…「悪平等」を使ってオヤツを横取りする方法」*3でも解説した、悪平等によるものに他ならない。具体的な最近の事例を挙げると、例の非科学的表現で問題視された「美味しんぼ」の3週に渡る短期集中連載「福島の真実編」で、その最後の回においてスピリッツ編集部が行った、「ご批判とご意見」の列挙とそれに関わる「編集部の見解」。「正当な研究や論調をしている先生諸氏」と、「非科学的、あるいは妄言的、さらには自らの非論理的な主義主張を広めるために事象を悪用している諸氏」とを同一のテーブルに並べ、同じ確からしさにあるかのように表記してしまったというものだ。

さらにいえばこのような並列表記の場合、読み手は得てして前にある内容を前座的なものとして、後にくるものを本旨として受け取ってしまう。文章の構成の上では正しい手法ではあるが、それを逆手に取ったともいえる。平等に取り扱っているように見せ、その実、後ろの方が重要、そう印象付けることが可能となる。

ただ、問題は配列(どれを前にして、どれを後にするか)というよりも、タイトルにあるといえるのでは? 読み手は、記事のタイトルを参照することによって、行太郎の言い分をメインとして、尾木などの言葉を「前座」として、解釈してしまうのでは? もしタイトルが別であれば、行太郎の言葉はたんなる〈最後の付け足し〉として読まれる可能性もあるのだ。
「寛容」を巡って;

野球の試合に例えてみる。勝負は時の運。どれほど全力を尽くしても、実力差があっても、負けてしまうこともある。その起因に意図的な所業があるのなら、その部分で反省すべきところはあるが、勝敗そのものを責めるのは酷というもの。これこそ「寛容さ」が必要である(これはオリンピックをはじめとするプロスポーツ競技で特に欠かせない)。

ところが今件STAP細胞問題は「試合に負けた」では無く「八百長プレーをして勝った。そしてその八百長が露呈した」というもの。あるいは意図的なルール違反(ドーピングや道具に仕込みを入れたなど)。この点で寛容さを出して良いはずがない。果たして八百長や意図的なルール違反が発覚した状態において、それを非難すると「寛容な社会」たりえないのだろうか。健全な業界の妨げになるのだろうか。

そんなはずはない。意図的なルール違反への寛容さは、本来の意味での「寛容な社会」に必要なものではない。


さらに身近な例を挙げてみよう。カンニングをして連続してテストで100点を取り、学校からその優秀さが評価され賞も受けた。しかしカンニングがバレて、これまでの優秀な成績はすべてカンニングの所業であることが暴露されてしまった。カンニングを見抜けなかった先生、さらには気が付かなかった、気が付いても報告しなかった他の生徒にも責任はあるかもしれない。しかし一番最初に、そして重いペナルティを受けねばならないのは、カンニングをした生徒自身。

その生徒が「自分はカンニングしてません」「100点は、とったんです」「つい袖の下に公式や化学記号のメモを書いちゃいました」と主張し続け、カンニングを認めない状況が許容されるべきなのか否か。そしてその生徒の反応を非難する周囲に対し「寛容な社会が」と押しとどめようとする意見がいかなるものか。

勿論、捏造に「寛容」はあり得ない。それに反対する人はあまりいないだろう。また、小保方晴子は当然非難されるべきだろう。しかし、それだけで終わっていいの? という感じはする。というか、捏造の有無よりも、彼女の態度の方が問題だと思う。以前にも書いたが、STAP細胞は存在すると叫ぶ一方で、批判に対して反論することもなく、「未熟」者なのでどうか勘弁してと言うばかり。背後にいる代理人=弁護士は刑事裁判の類推で、こうしていれば証拠不十分で有罪を免れることができると踏んでいるのかも知れないが、公共的な討議、それも科学論争において、それが通用する筈もない。ただ、これには彼女の人格とか資質とかに還元することのできない背景があると推測している。それはSTAP細胞というアイディアが彼女のオリジナルではないということだ*4。つまり、自分がSTAP細胞はやっぱりないと認めてしまうことは恩師のものであるSTAP細胞というアイディア自体を否定してしまうことになるので、認めることはできない。そう考えているのかも知れない。小保方の〈実証研究〉が駄目だったということがわかったのなら、今度はターゲットを(共著者でもある)大和雅之やいやんばかんもといチャールズ・ヴァカンティに移すべきなのではないか。どのメディアも、重病だと伝えられる大和雅之はともかくとして、米国のサバティカル中のヴァカンティに、Nature論文をほぼ否定するような結論を理研の調査委員会が出したんだけどどう思うのかというインタヴューを行っていないのは驚くべきことだ。文系的な喩えを持ち出して恐縮なのだが、かつて存在した/現に存在している社会主義がゴミだという前提を踏まえて、マルクスの理論に妥当性や有効性はあるのかと問うことが学術的に重要な意味を持っていることはいうまでもない。しかし、マルクスは死んでいるので、現在の私たちが、あんた蘇聯や中国についてどう思っているのよ、と問い詰めることは不可能である。ただ残されたマルクスのテクストを再解釈するしかない。しかし、私たちはヴァカンティ氏に、それでもSTAPというアイディアは有効なのかと質問することは可能なのだ。
さて、山崎行太郎は「正解しか許されない場所から、果たして世紀の大発見が生まれるだろうか」と嘆いている。実は、山崎が擁護する小保方の方が「正解」に拘っているともいえるのだ。しかし、ここでは深入りしない。野球の比喩を使えば、たしかに外野があと3メートル深かったらただのレフト・フライだったかも知れないせこいホームランよりも、壮大な場外ファウルに拍手を送るべきだろう。しかし、今問題になっているのはそんなことじゃない。寧ろ、ファウルであれフェアであれ、その打席自体が存在したのかどうかが問題になっているのでは? まあ、「正解」なんて、ボブ・ディランなら、そんなのは風に吹かれ・漂っているさというのだろうけど。ロバート・プラント*5
Dylan (Snys)

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Led Zeppelin 4: Zoso

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「幹細胞」を巡るネタとしては、こちらの方が倫理的な衝撃度は強い;


田中大貴「ヤバすぎる!「培養肉ハンバーグ」の衝撃」http://toyokeizai.net/articles/-/56802