すべきこと

STAP細胞騒動を巡って、共同通信山崎行太郎にインタヴューしている*1


文芸評論家の山崎行太郎(やまざき・こうたろう)さんは「まだ誰もやっていない成果を追い求めるのが科学者。断罪するようなことは絶対に良くない」と小保方氏を擁護。一連の騒動が、寛容さを失っていく社会の風潮を象徴しているように見えてならないと振り返った。

 「正解しか許されない場所から、果たして世紀の大発見が生まれるだろうか」。今後多くの研究者が萎縮し、科学研究の現場に悪影響をもたらすかもしれないと危ぶんだ。

共同通信の記者/デスクは行太郎の言説に感動してしまったようで、記事にはほかにも尾木直樹*2雨宮処凛*3の言説も登場するのに、記事のタイトルに行太郎の言葉を採用してしまっているのだ――「【STAP問題】厳しい目、寛容さを失う社会を象徴か  騒動の背後に」。
しかし、問題は「寛容」ではない。すべきことをするかしないかということだ。小保方晴子も行太郎もすべきことをしていない。
小保方がすべきことは何だったのか。それは自分への批判に、逐一、粛々と応答することだろう。しかし、彼女が実際にしたことは、一方ではSTAP細胞あるある! と叫びながら、他方では批判(例えば「調査委員会」の報告)に応答することなく、未熟者ですからもう勘弁して下さいと唯々泣いているだけなのだ*4。さて、文藝評論家とは何よりもテクストを読む人であろう。しかし、行太郎は今回のSTAPの件で文藝評論家としてのすべきことをしていない。小保方に対する批判者を口汚く罵るだけで、その批判のテクストの別様の読みを提示するということをしていないのだ。
小保方及び行太郎はb>すべきことをしろということなのだが、この共同通信の記事を引用している古寺多見氏は、さらに野口英世に言及している。黄禹錫*5と野口を比較した松浦晋也氏のテクストを援用しつつ*6野口英世は意図的に「捏造」していたわけではなく、何と言ったらいいか、当時はホームランだと思われていたのにその後の検証で実はファウルだと判定されたというか、当時のアンパイアはストライク! と判定したけれど後の検証によって実はストライク・ゾーンを外れていたことがわかったということなのでは? 
野口英世については、以前こんなことを書いていた;

うろ憶えなのだが、Oh, Henryが以前、湯川秀樹を罵倒しつつ、湯川よりも野口英世の方が偉かったのにどうして野口はノーベル賞を獲れなかったのだとか書いていたような気がする。ところで、野口英世って、Oh, Henry及びその仲間たちが忌み嫌っている(筈の)紐育「ロックフェラー大学(Rockefeller University)」に所属していたんだよね。というか、ロックフェラー大学の図書館は野口英世の胸像があるおかげで日本人観光客の観光名所となっている(福岡伸一生物と無生物のあいだ』、pp.18-19)。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100324/1269356443
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)