古井由吉と「山」

石川淳『文林通言』*1。石川は古井由吉の小説を、アラン・ロブ=グリエ*2の謂うヌーヴォー・ロマンであるという――「わたしの見るかぎりでは、古井君は現在の日本の文學状況の中にあつて、當人の意識がどうであらうと、ともかく當人なりに「あたらしい小説の形式をさがしもとめ」てゐるのではないかとおもふ」(p.137)。そして古井由吉の作品を読み解く鍵は「山」であるという;


古井君の作品については他の二三篇をわたしも見てゐるが、それを通してうかがつただけでも、「山」というものはつよくこの作者の精神をつかんで話さないやうである。實在の山がどれほどこのひとの生活に食ひこんでゐるのか、わたしの知る限りでない。ただ作品の世界では、作者は山のはうに寄つた位置に立つて、そこからうごき出してゐるかと見える。「杳子」のことでいふと、その發端のくだりの構成は山といふ自然と二個の人物の感覚とをもつて充實されてゐて、たとへばこの人物が身ぢかに感ずるところの岩のほかに岩といふものはありえない。さういつても、小説の場におけるエネルギーは岩に凍結されたままではゐられないわけのものだから、また人間は未来にむかつて今日に生きてゐるはずのものだから、どうしても人工の網をめぐらした町のはうに引き出される仕儀になる。この人物にとつて、またおそらく作者にとつて、冒険は山よりもむしろ町の中にあるだらう。これは避けがたいところである。
山の谷底に對比するもののごとく、町のはてに病院といふ仕掛があつて、その門が向うに見えるところまで、町の日常性に抵抗しながら道の曲り角をさがしてゆくことは、吊橋をわたるよりも危険にちがひない。その危険を踏んで、女の異常性に表現をあたへるといふ手だてが人間を「發明」したことになつたかだうか。そこに町の世界と人間のあひだにあたらしい關係が見つかつたかどうか。わたしが早手まはしになにかいはなくても、みなさんがこの小説を讀んでからゆつくり判断して下さい。すくなくとも、作者の苦心の量は目測することができるでせう。
「杳子」のあとに「妻隠」がある。このはうは、世界は町一本だてになつて、山の影はささない。かうなると、山靈の氣といふありがたいものの代りに、町のスゴミといふかつかいなものを相手にしなくてはなるまい。人工の設定の中の、人間のうごきである。山の案内には通ずることができても、つひに勝手の知れないところが町なのだから、すなはち敵はのべつに入れ代り立ち代つて一所不在なのだから、岩ほどに頼みになりさうな精神の寄せどころが世界のどこにありうるか。表現もまたしたがつていそがしく、うつかり立ちどまると、一語のはしからでも日常性の穴に、時間的には過去のはうに落ちてゆきやすいだらう。わたしはスタイルのことをいってゐる。このスタイルが今後どうなってゆくか。じつをいへば、それをどうのかうのとはたから氣にするほど、私は苦労性でない。これはおそらく當人の作者における課題である。(pp.137-138)
杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

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