- 作者: 宇沢弘文
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1987/05
- メディア: 単行本
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宇沢弘文先生*1の対談集『現代経済学への反省』。これを最初に捲ったときにいちばん印象が強かったのは、あからさまな中国(文化大革命)礼賛だった*2。
ちょっと引用してみる。ジョーン・ロビンソン*3との対談、「経済学の危機と現代」(pp.3-34)*4から。
まあここで礼賛されている「中国」というのは実在の(real)中国というよりは、西側(米国や日本など)で感じられている欠落感とか失望感を投影して想像的に構築されたユートピアとしての「中国」だということになるだろう。
ロビンソン(前略)アメリカ人が中国から受ける最大の印象は道徳的な面だと思う。中国人は労働の中に喜びを見いだし、社会から何かを受け取るということより、社会にどのような貢献をなしうるかを重んじる。ノイローゼの兆候の著しいアメリカ人に比較すれば、中国人はきわめて人格円満で、これはアメリカ人にとって驚くべきことではないか。
私が中国で会ったアメリカ青年は、「中国人は人々を改良しようとしている。これは中国人以外には不可能だ」といっていたが、彼らにとっては中国人の生活態度は思い浮かべることさえ不愉快になる。つまり、中国人とアメリカ人は両極端にあるわけで、アメリカではすべての人々がエゴイストとして育てられるために人生が重荷になる。そのような不幸なアメリカ人からみると、人生に対する中国人の姿勢は一種の啓示として映るのだと思う。
ラテン・アメリカやインドの実情を知るものにとって、完全雇用が達成され、医療その他基本的生活水準が保証されている中国は驚異的という以外にない。
宇沢 一人当たり年間国民所得が約六〇ドルという事実から、中国人は飢餓状態にあるのではないかという疑問は当然あるのでしょうが、中国にかんする報告は順調な中国経済の発展を物語るものが多いようです。食料、衣料、住宅など立派といえないまでも、生活必需品の提供は十分だし、こういった点は、所得分配の不平等化の著しい資本主義競争社会ときわめて対照的なことではないかと思います。
ロビンソン その通りです。テレビや新聞を通じて、より多くの商品を求めて人々があくせくしていることからみると、中国ではしゃれた服装でいるのが恥しいくらいです。質素にしていることがむしろ流行で、人並にということより、人並以下に(keeps down with Jones)というのが常識になっている。西欧社会ならば貧困は耐えがたいものに思われるのに、中国ではそんなことはない。その意味でも偉大な経済社会だと思う。(pp.31-32)
斎藤眞との対談「新保守主義台頭の歴史的背景――アメリカ・リベラリズムの命運は?――」(pp.175-205)*5から切り取った、以下の斎藤の発言には、(ユートピア構築の前提となる)欠落感とか失望感の一端が表れているように思われる;
ところで、宇沢先生は、自らの「中国」観について、「世代」的な影響を語っている。「中国」をテーマにした唯一の章である、石川滋、内田忠夫との鼎談「最近の中国経済を見て」(pp.258-296)*6の最初の部分から;
(前略)ヴェトナム戦争でアメリカのいろんな意味の限界が顕在化したと考えます。軍事力の限界はもちろんありますが、経済学の限界はもちろんありますが、経済力の限界も示した。いちばん大きいのは、アメリカのモラル・パワーというべきものの限界があそこで出てきたことでしょう。いままでアメリカは、戦争をやる場合、どこかでいじめられている人がいて、それじゃ行って助けるか、という「正義の味方」としておこなっているという自己像があった。第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争のときもアメリカ人の意識のなかではそうだったと思います。
ところがヴェトナムの場合には、ある日突然に事が起こって、急拠、行って助けるということではなく、ズルズル泥沼化して介入していっている。しかも戦争の理由、大義というものがまったくない。やり方も残虐で、しかもそれがマスコミを通して大衆の目に映る。
そういう意味で、ヴェトナム戦争がアメリカ人にとって非常に深刻な打撃を与えたのは、戦傷者が多かった、期間が長かったというよりも道徳的な戦争の大義がなくて、モラル・パワーとしてのアメリカというものがそこで見失われたということの打撃というか、ショック。基本的に、ヴェトナム戦争が与えたインパクトしてはそれが大きい。(pp.189)
個人的な話になるかもしれないのですが、あるいは私どもの世代にある程度共通しているかとも思うのですが、私の場合、戦争末期の旧制高校のときに初めて「毛沢東」の名前を知ったわけです。その後、毛沢東がそれまでの封建的な遺制、植民地支配を打ち破って新しい社会を築いた。私は、中国の歴史も文化も経済も深く知っているわけではないけれども、心のなかに、一つの理想的な社会のあり方を中国に見いだそうという気持ちが育ってきたように思うのです。つまり「わが内なる中国」という感じが強くあるのです。私たちの世代には、こうした人たちがかなり多いように思う。(p.259)
*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060408/1144471534 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091230/1262144139 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100816/1281992231 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110208/1297161088 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111229/1325091628 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111230/1325211614 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131116/1384584256
*2:実際には、収録された殆どの対談では、「中国」は全く言及されていない。なので、私のこの印象は、かなり強烈なものだったとはいえ、この対談集全体の性質に関説するものではない。
*3:See eg. http://www.wisdomsupreme.com/dictionary/joan-robinson.php http://en.wikipedia.org/wiki/Joan_Robinson
*4:初出は『季刊現代経済』10(1973)。
*5:初出は『エコノミスト』臨時増刊(1981年7月5日)。
*6:初出は『季刊現代経済』38(1980)。