『微風』の藤圭子

某CDショップで徳間ジャパンコミュニケーションズ*1のPR雑誌『微風』(2013年秋号)を見つける。雑誌タイトルや表紙の感じから、一瞬スタジオジブリのPR雑誌『熱風』*2と間違えそうになった。
その目次を見てみると、全10本の記事のうち3本が「『微風』編集部」著の記事。その中の「追悼:藤圭子」という記事(pp.57-59)から。
「徹底してクールでいながらも、実は魂そのものをぶつけるような歌唱法、人間の持つ負の部分や言葉を超えた哀切を歌った藤圭子は、同時代にアメリカで活躍したジャニス・ジョプリンにも共通するブルース感覚を最初から持っていたのです」といい(p.58)、しかしながら、


日本語でブルースとロックを体現した最初の女性シンガーであったにもかかわらず、藤圭子は演歌という特殊なジャンルでの突然変異的な成功と見なされて、時が経つにつれて演歌が変遷していく中で埋没していきました。そして自分が目指す音楽と、自分に求められる音楽との間で葛藤し、もがきながら消えざるを得なかったのです。(p.59)
という。
さて、藤圭子がデビューした1969年にヒットした歌には「若い女性シンガーが歌う暗い曲が多かった」(p.57);


カルメン・マキ「時には母のない子のように」
アン真理子「哀しみは駆け足でやってくる」
千賀かほる「真夜中のギター」
加藤登紀子「ひとり寝の子守唄」
佐良直美いいじゃないの幸せならば
黛ジュン「雲にのりたい」
浅川マキ「夜が明けたら」
藤圭子「新宿の女」


また曰く、


時代から切り捨てられて一人ぼっちを痛切に自覚し、世間から距離を置いて自己を見つめる、そんな内省的な歌詞を持つ女性シンガーの歌を支持したのは、圧倒的に同世代の若い男性たちでした。
その年の一月一八、一九の両日、全共闘の学生たちのバリケード封鎖によって半年以上も占拠されていた東京大学安田講堂が、機動隊の攻撃によって陥落しました。これで六十年代後半から世界中に吹き荒れた、若者たちによる反抗の季節が終息へと向かいます。
既成の価値観を壊して新たなる地平を求めた文化運動も、エネルギーが分散して方向を見失い始めていきました。
けれども問題が解決したわけではありません。アメリカが進めたベトナム戦争は泥沼化し、世界の各地で紛争や闘争が絶えず、明るい未来がいつかやってくるという期待が幻想に過ぎなかったことに気づいた若者たちの間には、無力感や寂寥感が共有されていきました。
だからこそ一九六九年の日本では、暗い曲が支持されたのであり、希望が失われた時代の空気を、最も反映していたのが藤圭子だったのです。(p.58)
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080702/1215017909 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130823/1377217865 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130825/1377399433 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130826/1377497547 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130827/1377623249