森浩一

少し時間は経ってしまったが、備忘と追悼のために記事を切り抜いておく。
NHKの報道;

考古学者の森浩一さん死去
8月9日 20時40分

日本の代表的な考古学者として知られ、多数の著書や講演会などを通して考古学を分かりやすく紹介した同志社大学名誉教授の森浩一さんが今月6日、京都市内の病院で亡くなりました。
85歳でした。

森浩一さんは大阪市出身で、大阪の高校の教師などを経て昭和47年から平成11年まで同志社大学の教授を務めました。
森さんは、日本の神話から古代日本史の真相に迫ろうと数多くの著書を残したほか、戦いに敗れた古代の人物から古代史を見直そうと、ことし3月まで雑誌で連載を続けるなど、考古学の魅力を分かりやすく伝えてきました。
また、邪馬台国の女王、卑弥呼に古代中国の皇帝から贈られたという説もある「三角縁神獣鏡」について、国産のものだという説を早くから提唱し、邪馬台国がどこにあったかを巡って議論を深めました。
森さんは、長い間、腎臓の病気を患いながら執筆などを続けていましたが、同志社大学などによりますと今月5日に肺炎で入院し、6日に急性心不全のため亡くなりました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130809/t10013677831000.html 

また上田正昭先生が『毎日新聞』に追悼文を寄稿している(「森浩一さんをしのぶ 「古代」と「地域」を見つめて」)*1。上田先生は「森考古学は遺物・遺跡のみの考古学ではな」く、「それぞれの地域に関する文献史料や民間伝承なども視野に入れた、古代を総合的に研究する森古代学であった」と述べているのだが、その「古代学」という言葉の用例について言及している部分をコピーしておくことにする;

そもそも「古代学」という用語を、日本で最初に使ったのは喜田貞吉(きたさだきち)博士である。明治42(1909)年に『東亜之光』に「考古学と古代史」という論文を執筆したが、その後にまとめられた自伝『六十年之回顧』では「考古学と古代学」に改められた。

ついで昭和3(1928)年、折口信夫(おりくちしのぶ)師が『氷川学報』に発表した「上代文化研究法」では、明確に「古代学」を使用した。森浩一さんは同志社大の3年だった49年、学生仲間で作った研究会の機関誌を『古代学研究』と命名して発刊した。その志のありようは、学生時代すでに芽生えていたといってよい。
http://mainichi.jp/feature/news/20130813dde018040046000c.html

森先生は須賀敦子さん*2とはいとこ同士であり、『別冊文藝』の須賀敦子追悼特集でも、いとこについて、また須賀家のルーツについて語っているということを申し添えておく。
須賀敦子―霧のむこうに (KAWADE夢ムック)

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