自分は自分をわかる?

「もっとはっきりと「ぼくは東浩紀だから東浩紀以外の気持ちはわからない」と言えばいいのに」http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130627/1372338234

東浩紀*1


別にこれは震災関係でなくても同じ。ぼくは男性だから女性の気持ちはわからない。異性愛者だから同性愛者の気持ちはわからない。日本人だから韓国人の気持ちはわからない。……といった限界を受け入れて、そのうえで仕事をしていくしかない。無限に他人に寄り添っても意味がない。
https://twitter.com/hazuma/status/350123735199657984
という呟きを引く。そして曰く、

男性・女性、異性愛者・同性愛者、日本人・韓国人、と言った違いを挙げて「気持ちはわからない」とは言えても、東浩紀東浩紀以外の違いは挙げられないのでしょうか?

東浩紀氏にとって東浩紀氏以外は全て他人ですから、たとえ東浩紀氏の親や兄弟、嫁、子どもであっても、その気持ちがわかるわけがありませんね。東浩紀氏にとっては親兄弟、嫁、子どもを含めた他人に無限に寄り添っても意味がないのでしょうね。


さて、まじめに批判するなら、誰しも自分以外の人の気持ちなんてわかるはずがありません。しかし、わかろうと努力することはできます。一般的に「相手の気持ちをわかれ」という言い回しは、相手の気持ちをわかろうと努力しろという意味を持ちます。男性であっても女性の気持ちをわかろうと努力することはできますし、異性愛者でも同性愛者の気持ちを理解しようと努力することはできます。もちろん、日本人であっても韓国人の気持ちを理解しようと努力することができます。そして誰も無限に他人に寄り添えなどと要求しません。どんな人でも人生をかけて寄り添える他人などは、いても数人でしょう。いない人だって珍しくありません。

東浩紀氏のツイートは、単に努力放棄の意思表明であり、身内や日本人異性愛者男性の気持ちまでは理解しようと努力するがそれ以外に対しては努力しないという線引きの表明です。

先ずは「理解」とは何かということが問題となる。
「理解」の理解を棚上げにした上でいえば、(非‐哲学的な)私たちが易々と独我論のドグマを乗り越え、意図とか「努力」の有無に関わらず、他者を「理解」してしまっているということに驚くべきだろう。「理解」を巡るあらゆる哲学的な省察はこの〈驚き〉から出発しなければならない。なお、この「理解」は友好的か敵対的かも問わない。というか、「理解」なくしては他者とのあらゆる関係が存立しないのだ。敵を「理解」することなくしては戦争はできない。泥棒は警察当局の意図などを「理解」しているし、警察も泥棒を「理解」することなくして、その取締りや捜査をすることはできない。
さて、東浩紀が「東浩紀」自身を「理解」するのが「他人」を「理解」することよりも容易いと気軽にいうことができるのか。これに対しては、私は私自身の顔も背中も直接見ることはできないという反論が先ず可能だろう。自己理解の(原理的な)困難さについては、取り敢えず鷲田清一先生の『じぶん・この不思議な存在』*2をマークしておく。
じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

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