1930年代の米国思想史的意味(メモ)

アメリカの社会と政治 (有斐閣ブックス)

アメリカの社会と政治 (有斐閣ブックス)

松本礼二「知識人と政治」*1(in 五十嵐武士、古矢旬、松本礼二編『アメリカの社会と政治』、pp.243-264)


少しメモ。
米国思想史における1030年代の特徴は、大まかに知識人の左傾化ユダヤ系知識人の擡頭、ヨーロッパからの亡命知識人の流入ということになる。


第一に、共産主義マルクス主義それ自体は外来のものであっても、これに同調したアメリカの知識人の意識には多分に革新主義以来のアメリカの進歩的伝統の延長という面があったことである。シンクレア・ルイスやドス・パソスなど多くの作家が共産党員やそのシンパとなり、『ニュー・リパブリック』や『ネーション』(The Nation)の論調が人民戦線路線に接近した背景にはそうした意識があった。デューイも一時トロツキーを支持し、その弟子シドニー・フックはアメリカにおける最初の創造的なマルクス研究者として、プラグマティズムマルクス主義との接点を探し求めた。アメリ共産党自体、「共産主義は20世紀のアメリカニズムである」というスローガンを掲げて、そうした意識を自覚的に利用しようとした。もっともそれが長期的に成功したかは疑わしく、ローズヴェルト政権の米ソ協調時代が過ぎると、共産主義の同調者はなによりもその「非米活動」を追及され、ソ連のスパイとして疑われることになる。
第二に、従来のワスプ(White Anglo-Saxon Protestantの略、WASP)主体の正統派知識人とは異なる社会層の出身、とくにユダヤ系の作家や学者がアメリカの知識人社会に進出したことである。リップマンをはじめユダヤ系知識人の活躍は散発的にはすでにめずらしくなかったが、移民二世がニューヨーク市立大学コロンビア大学に大量に入学し、学者や作家として世に出てゆくのはこの時期からである。くわえて1930年代にはヨーロッパからの学者、知識人の大量の流入があった。そのすべてがユダヤ人であったわけでも、全部がマルクス主義者であったわけでもないが、マルクス主義にしろ、フロイト主義にしろ、ヨーロッパの哲学や社会科学がアメリカの学界に根づくのに、亡命学者の貢献ははかり知れない。アドルノ、ホルクハイマーらのフランクフルト学派*2、カッシラーのような哲学者、ジグマンド・ノイマンやハンス・モーゲンソー、レオ・シュトラウス、ハナ・アレントなどの政治学者と、その後のアメリカの学界に多大な影響を及ぼしたユダヤ系の移住学者をあげればきりがない。『パーティザン・レヴュー』(The Partisan Review)や『コメンタリー』(The Commentary)といった雑誌はユダヤ系知識人を中核とする「ニューヨーク・インテレクチュアルズ」*3の活躍の場として、アメリカの知識世界に独自の位置を占め、その論調は今日では新保守主義色が強いが、もとを質せば30年代の左翼雑誌であり、『パーティザン・レヴュー』はその名の通り、初めはコミュニストの雑誌として出発し、次いでトロツキスト系になったものである。(pp.256-257)