『国体の本義』を書いたのか?

京都学派 (講談社現代新書)

京都学派 (講談社現代新書)

菅原潤『京都学派』*1から。
「京都学派」ではない和辻哲郎*2について、


(前略)和辻は一九三七年に発表された『国体の本義』の執筆に参画している。これは一九三五年の国体明徴声明において事実上、天皇機関説が葬られた事態を受けて、文部省が数人の学者たちに編纂させた書物であり、万世一系天皇制を強調する一方で、民主主義や個人主義が国体にそぐわないことを事細かに論述している。
(略)京大四天王*3が戦争賛美に向かうのは太平洋戦争勃発直前の一九四〇年であり、また三木清が昭和研究会に本格的に参加するのは一九三八年だから、和辻の言動がこれらのいずれよりも早いことは注目すべきである。それでいて和辻は公職追放を免れている。その理由は依然として不明である。(pp.70-71)
さて、熊野純彦和辻哲郎――文人哲学者の軌跡』(岩波新書)には、この『国体の本義』の話は全く出て来ない。問題の1937年についてであるが、7月7日の盧溝橋事件=支那事変勃発に興奮して(?)、

(前略)古代の東洋の高貴な文化が死滅すべきものない限り、この生ける伝統を保持せる日本人の仕事は、同時に世界文化の中にこの高貴な伝統を生かすという任務を負う。しかもこの任務はギリシア文化の潮流との総合においてのみ果たされ得る。かくしてこそ、世界史の保持せるあらゆる優れたる文化の精神が、新しい統一にもたらされ得るのである。かかる世界史的任務を課された者としてのみ、日本人はその発展の権利を有し、さらにその道を阻むあらゆる者を打倒し去る権利を有する。(後略)
とアジる、「文化的創造に携わる者の立場」という論文を『思想』の同年9月号に発表したことが記されている(pp.168-172)。「「文化的創造に携わる者の立場」を書いたあと敗戦にいたるまで、和辻には、時局に直接に関連する文章はそれほど存在しない」が、この年の12月に「文部省教学局参与」になることによって、「一九三八年以降、学問・思想政策の決定過程の一端に関係することになる」(p.172)。しかし、これは『国体の本義』が公刊された以降の話であり、西田幾多郎田辺元も同時に「参与」になっているのだった*4。その後、近衛文麿内閣の木戸幸一文部大臣が辞任し、陸軍の荒木貞夫大将がその後を襲うと、西田幾多郎は参与を辞職するが、

(前略)和辻自身は、その後も文部省との関係をつづけ、その結果、右翼や軍部の一部による、和辻への攻撃もはじまる。「帝国新報」には、「国賊和辻哲郎を葬れ」という見出しがおどった。結果的にみれば、右翼によるこの執拗な反撃が、戦後の和辻をすくったことになる。(p.174)

和辻哲郎は、一九四一(昭和十六)年の二月から四四年の二月にかけて、「思想懇談会」に参加して、戦時体制の確立をめぐる議論に参与している。懇談会は、海軍省調査課のブレーン組織のひとつである。和辻はさらに四五年一月から、加瀬俊一、山本有三等とともに、「三年会」をつくり、敗戦を見越したうえで戦後処理についての意見を具申していた。思想懇談会は、東條内閣に対抗して展開された、海軍穏健派の活動のひとつである。三年会は、山本を介して近衛につらなっていた。
(略)和辻の自己認定では(略)戦中のほぼ全体をつうじて、和辻は反政府勢力にぞくしていたことになる。和辻は、じっさい戦後にいたって、じぶんに対して戦争責任を追及する声をことごとく斥けた。(pp.197-198)
和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書)

和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書)