「志向性」の起源(メモ)

承前*1

理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

浜田寿美男「還元としての子供――「私」というものの発生の手前で」の続き。
曰く、


赤ちゃんはうつろな目をして生まれる。ことあらためてこう言うと、おかしく聞こえるかもしれない。しかし、この「うつろな目」ということの意味を、私たちの目と比較してみれば、そこにはごく当然の、そして現象学におてきわめて馴染み深い概念が浮かび上がる。つまり、志向性の概念である。
たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんと生後一ヶ月過ぎの赤ちゃんを写真で比べるだけでも、その目には歴然たる違いがあることが分かる。日常的な比喩表現を用いて言えば、前者の目には力がなく、後者の目には力がこもりはじめている。さらに二〜三ヶ月の赤ちゃんになれば、その目の勢いはもはや誰の目から見ても見逃しようのないものになる。その目は、言わば〈何かを見ている目〉になる。それは「意識とはつねに何ものかへの意識である」という志向性の具現と言ってよいかもしれない。
私たちにとって意識とは、単に生理学的意味での覚醒ではない。起きて目覚めているとき、私たちはいつも何かを図(テーマ)として取り出し、そこに向かっている。そうすることなく、まったくうつろなままに目覚めているという状態を、私たち大人はふだん経験することがない。しばらくボーッとしていて、はっと気づくということはあるが、そのときでもなにかしら取り留めもないっことに思いを馳せているものである。入眠期のまどろみにおいても、そこには種々の思いやイメージが揺動し、点滅する。いや、すっかり眠ってしまったなかでさえ、夢として登場することどもにはなんらかの図(テーマ)があり、夢見る「私」はそこになんらかの意味で向かっている。夢における志向性を問題として取り上げることすら不可能ではない。
そうしてみると、狭い意味での意識状態にかぎらず、人はいつも何かに向かっていると言える。この何かに向かうということが、志向性にほかならない。しかし赤ちゃんの、何を見ているとも分からぬ、あのうつろな目はなんであろうか。目を空けて、なおかつ何かに向かっていないというその目の奇妙さが、まさに人にとっての志向性の意味を、裏から照らし出していると言ってよい。
しかし赤ちゃんはすみやかにものに向かい、ものを見るようになる。そしてそのようにものを見る目つきをしはじめてしまうと、それこそ人間の本態であって、それ以前のほうが例外であるかのように、うつろであったかつての目を忘れてしまう。実際、我が子のそのころの顔を思い浮かべられる人は少ない。眼差しがない目、表情を欠いた目というのは人の記憶にほとんど根を下ろさないものらしい。(pp.171-172)

(前略)自分がいて、その外にものを見る。こんなごく当然のことすら、自明ではない。その証拠に現にものから光刺激を受けながら、それを外のものとして受けとめずに、注視も追視もしない子どもがいる*2。いや、それもごく例外的に重度の障害を持っている子どもに限っての話ではない。考えてみれば、誰もが生後一ヶ月くらいまでは、それとまったく同じ状態ではなかったか。(p.174)

意識の志向性に限定せず、志向性を広く〈何かに向かう〉ことだとすれば、それはあらゆる生き物に備わっていると言っていい。生き物は時空に一定の位置を占め、そのなかを生きる。それゆえに、〈ここからどこかに〉、〈いまからあしたに〉という一定のベクトルを生きることを、いわば運命づけられている。人の意識の志向性もまた、この広い意味での〈向かう〉ことの一つにほかならない。(後略)(pp.174-175)
現象学的概念としての「志向性」については、例えばhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050727 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070727/1185479875 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090319/1237480149 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090727/1248714718 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090731/1249061946 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090804/1249374491 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110924/1316890882を参照されたい。