「私が私でなかったころの私」

承前*1

理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

浜田寿美男「還元としての子供――「私」というものの発生の手前で」の続き。
「 私が私でなかったころの私」或いは「未生の私」をどのようにして知ることができるのか。浜田氏のテクストを読みながら考えたのは、まだ「私」以前の段階にありこれから「私」になろうとする赤ん坊を見ることによってだということ。
その前に「死者」の話。現在を生きている私にとって、「未生の「私」」と「死後の「私」」は、その構造的位置が似通っている。過去の極と未来の極。しかしこの二つには決定的な差異がある。


死者はいっさいのかかわりを拒絶する。まなざしを交わすべき目はその力を失い、どこを見るともないうつろな眼球に変わりはてる。生者の目はけっして死者の目と出会うことはない。また握り返してくれるはずの手は硬直して、ただの冷たい肉塊になりはてる。生者は死者と握手を交わすことはできない。その姿態になお「私」らしきものを感じるとすれば、それはまだ物体に還りきらない身体にまとわりついた一種の残効にすぎない。(p.169)
赤ん坊の場合;

(前略)人の記憶は、たいてい三〜四歳までで途切れる。まれに二歳のときの記憶、そして一歳の時の記憶を持つ人もいる。さらには生まれたときの記憶、いや胎児のときの記憶まで語る人もいるが、これはまず例外と言ってよいし、多分に眉唾ものである。ここで私は、記憶のあるところまでで「私」が消えると言いたいわけではない。現にまだ片言も喋らぬ一歳まえの赤子に出会ったときでも、私たちは、そこに立派に自己を主張する一個の人格めいたもの、つまり「私」らしきものを感じる。しかし生まれてまだ一ヵ月に満たない赤子についてはどうだろう。そこでは私たちは、出会ったという印象を持てない。だいいち目が合わない。声をかけても応答が返ってこない。手の平に指を押し当てると握りはするが、機械的で、握り合うという感覚をもてない。それでも、もちろん生命体として生きていて、乳を求め、それを吸い、空腹や不快に泣き、大きな音に驚きもし、苦い汁に顔を歪めもする。しかし、私たちはそこに「私」を捉えきれない。この赤子が実際のところ「私」として生きているのかどうか、それは分からないが、他者たる私から見て、そこに「私」らしき何かを十分に感じられない。ただそのうえで、この赤子が死者と異なるなにものかであることは間違いない。その証拠に、人は赤子から適切な応答が返ってこないことを十分知ったうえで、そこに話しかけるにふさわしいもう一人の主体がいるかのように声をかけ、またそこから何らの反応がなくとも再び声をかけ、終日あくことなくこれを繰り返す。
素朴な印象からして、人は生まれたての赤子に「私」を感じることはできない。しかしそれでいて、人はそこにもう一人の「私」がいるかのように振る舞う。周囲の「私」たちのこの矛盾した振る舞いこそが、じつは「未生の私」を「私」にしていく、おそらく必須の要件となる(後略)
とまれ、私は気づいたときすでに私であった。それゆえ、私自身について「未生の私」が「私」になる過程は、もう私の手にはとどかない。しかし、私たちが生み、育てる赤子たちの「私」が未生の段階からどのようにしてその形をととのえるかについては、私たちがその実的過程を観察することによって、ある程度までこれを追跡することができる。そして、その観察そのもののなかで、私たちは他者である赤子の「未生の私」に身を添わせ、そこから「私」への過程を言わば生き直そうとするのである。(後略)(pp.169-170)
「他者である赤子の「未生の私」に身を添わせ」、「「私」への過程を」「生き直そうとする」こと。これはもうひとつの重要な意味を持っているといえるだろう。世界の超越性・永続性――世界は私が生まれるずっと以前から存在しており、私が死んだ後も存在し続けるだろうということ――の確信にとって。
「私」の生成については、別の側面からの考察として、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120314/1331655348 も参照されたい。