清水徹『ヴァレリー』

ヴァレリー――知性と感性の相剋 (岩波新書)

ヴァレリー――知性と感性の相剋 (岩波新書)

清水徹ヴァレリー――知性と感性の相剋』を読了したのは3月11日の早朝で、その日は5時起きで、つまり殆ど眠らずに浦東空港へ行き、日本へと飛んだので*1、この本のことをblogで言及する機会を逸してしまった。


序――《感性のひと》の側面
1 最初の危機――ロヴィラ夫人をめぐって
2 レオナルド論とムッシュー・テスト
3 ロンドンと『方法的制覇』
4 詩作の再開と第一次世界大戦
5 愛欲の葛藤――カトリーヌとの出会い
6 胸像彫刻にはじまって――ルネ・ヴォーティエと『固定観念
7 崇拝者からの愛――エミリー・ヌーレの場合
8 最後の愛――『わがファウスト』と『コロナ』と『天使』


年譜
あとがき

本書は〈ヴァレリーと女たち〉という副題がつけられて然るべきかも知れない。ヴァレリーが交渉した愛人たちを軸にヴァレリーの思想的・文学的生涯を再構成しようとする試みだからだ。ヴァレリーは「女好きで、ときには狂おしいまでに心を痛める恋愛を生涯に四度も経験して(彼は愛人たちに、身辺雑記を含めておそらく三千通以上の恋文を送っている)、そのたびに喜びまた悶え苦しみ、そういう恋愛を乗り越えて《精神の平和》を求めて、いくつものすぐれた作品を書いた」(「あとがき」、pp.195-196)。
序に曰く、

ところで《知性のひと》というレッテルがあまりにひろまったために、そしてまた彼の批評文がまぎれもなく鋭利な知性を示していたために、ヴァレリーが同時にまた、というか《知性のひと》である以前に《感性のひと》でもあり、たえず感性の波瀾に悩まされていたことが、いわば舞台裏に隠され、人びとの眼からこぼれ落ちてしまった。(p.6)
ヴァレリーが「《知性の偶像》に、他のすべての偶像を犠牲に供したのだった」(「自己を語る」)と語る所謂「ジェノヴァの夜」*2を巡って;

つまり《知性の偶像》とは、関税の波瀾を抑圧するためにヴァレリーによってつくりあげられた偶像なのであり、その背後には、その偶像によって排除され、隠蔽された《感性のひと》ヴァレリーと、それが敏感に反応する《女という偶像》がはっきりと潜んでいたのである。《知性のひと》ヴァレリーと《感性のひと》ヴァレリーは、同じヴァレリーという存在の二面をなしていた。(pp.9-10)

こういう彼は、じつは生涯に四回以上もの熱烈な恋愛を経験し、そのたびに彼は愛の悦びに舞いあがり、彼の感性は揺れ動き、またそれが報われざる恋で或る場合には彼は辛い苦悩に引き裂かれ、思い惑うのであった。そういう自分を彼はかならずしも肯定してはいない。(中略)第一次世界大戦のときも、愛国者であった彼はたえず戦況を心配して、すっかり《内心の平和》を失ってしまい、そういう状態からの脱出を詩作に求めた。このように彼の知性はみずからの感性の叛逆にたびたび遭遇しては、そのたびにそれに苦しみ、それを抑圧し、なんらかの方法でそこからの脱出をはかろうとしていた。ヴァレリーにおいて注目すべきは、感性の波瀾のなかか、あるいはそれに抗して、彼の知性が作品を産みだし、そのことによって感性の危機を乗り越えてきた一連の姿なのである。
いずれにせよ、ヴァレリーの生涯はこうした女たちとの交渉に彩られ、そこに芽生えた愛の情念はヴァレリーの内面に反映して、それを知性と感性の交錯と相剋の歴史たらしめた。(後略)(pp.10-11)
第1章はヴァレリー少年の「二十歳ほども年上」だった貴族の未亡人シルヴィア・ド・ロヴィラへの片思い、「ジェノヴァの夜」、そしてヴァレリーが初めて「性愛の悦びを知」った(p.35)「サーカスの女騎士」バチルド・モンシミエとの交渉。第2章ではジャニー・ゴビヤールとの結婚が言及されるが(p.51ff.)、ここでは、

ムッシュー・テストと劇場で』は、ほんの数十ページの短い作品だが、一種の小傑作である。九二年の《知的クー・デタ》のあと、ヴァレリーは、ロヴィラ夫人による《感性》の惑乱を、さながらみずからの身に《クー・デタ》を敢行するようにして抑えつけ、以後《知性のひと》として生きていこうと志した青春の危機を、ムッシュー・テストというある種の理想像的な人物を造型することによって、具体的に乗り越えたとも言える。
『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』と『ムッシュー・テストと劇場で』というふたつの作品を書くことによって、感性の危機から脱出して、辛うじて精神の平穏を手に入れたヴァレリーは、あとは、ムッシュー・テストのように地味な職業について、ひっそりと暮らしてゆけばいい。(pp.49-50)
という部分を引用しておく。
テスト氏 (福武文庫)

テスト氏 (福武文庫)

レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 (岩波文庫 赤 560-2)

レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 (岩波文庫 赤 560-2)

ヴァレリーがモテるようになったのは、1917年に「若きパルク」を発表し詩作を再開して以降、つまり中年になってからである。その意味で、〈ヴァレリーと女たち〉という副題が真に相応しいのは第5章以降だということになる。第5章で記述されるのは、1920年に49歳のヴァレリーが出会ったカトリーヌ・ポッジという女性との交渉。この恋愛とその破局にはカトリック(カトリーヌ)と無神論ヴァレリー)という対立が絡んでいる(See pp.103-104)。またカトリーヌとの関係の意味について、清水氏曰く、

ジェノヴァの夜》に象徴されるクー・デタは、カトリーヌとの出会いと傷つけあいというもうひとつのクー・デタによって顛覆される。かつて二十歳のころ知性を偶像とすることによってロヴィラ夫人を偶像視するみずからの姿勢を抑圧し、みずからの感性を閉塞させてきたヴァレリーのなあkで、カトリーヌ経験によって、女性というかつてもうひとつの偶像が復活してしまって、彼はその偶像の下に知性と感性の交錯と相剋に苦しめられるひととなる。実際、カトリーヌとの愛ののち、ヴァレリーはまるでひとがかわったかのように、何人かの女性たちと愛の関係をもつようになるのだった。(p.109)
ヴァレリー詩集 (岩波文庫)

ヴァレリー詩集 (岩波文庫)

第6章では、女性彫刻家ルネ・ヴァーティエとの「それぞれに報われぬ愛をかかえたかたちで、ヴァレリーが恋情を諦めきれず、ルネは心の底には距離を置きながら優しさを示すというような、奇妙な共感のうちに生きるようになった」(p.127)関係が言及される。第7章はヴァレリー崇拝者だった白耳義の教師エミリー・ヌーレとの関係。彼女はヴァレリーとの恋愛が終了した後もヴァレリーに対する敬意を持ち続け、ヴァレリーの死後は本格的なヴァレリー研究者になっている。8章は「ヴァレリーの最後の愛人」であったジャンヌ・ロビトンとの関係とその挫折。

ヴァレリーについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050703 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060123/1137995634 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080419/1208587466 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080419/1208587466 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100712/1278948575 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100712/1278948575 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101213/1292269811 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101213/1292269811http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110106/1294242349も。