栗城について幾つか

承前*1

エヴェレスト(チョモランマ)登頂に至らずに客死した登山家の栗城史多氏について幾つか。


石戸諭*2「エベレストで死亡、栗城史多さん 彼の挑戦は「無謀」だったのか?」https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/21/kuriki-nanseiheki-tandoku-musanso_a_23439869/


登山ジャーナリストの森山憲一氏の話を中心に。「栗城さんのレベルで、山頂に達することはありえないこと」だという。しかし、そのことと今回の死亡とは関係ない。「今年も登頂成功というニュースはこないと思っていました」が、「まさか、亡くなるという結果になるとは予想していませんでした」。


栗城史多さんと旧知の登山家「彼は登山家ではなく、山を対象とした表現者だった」 ウーマン村本、古市憲寿氏も追悼」https://abematimes.com/posts/4239654


その中から、


なぜエベレストに挑み続けるのかー。昨年、AbemaTV『AbemaPrime』に出演した栗城さんは、「山の魅力を一言で言うと、うまくいかないということ。人間は成功することが素晴らしいと考えるが、自然は本来うまくいかないことばかり。そこに向き合って学ぶということ。登れた山より、登れなかった山の方が思い出深い。子どもに対して、大人はすぐに"無理だ"と言う。失敗は怖い、挫折はかっこ悪い。その"否定の壁"をぶち壊したい」と語っていた*3



 「頂」に向かって悪戦苦闘する自らの様子をリアルタイムで共有することで、"否定"という壁をなくし、一歩踏み出す人を増やしたい。そんな考えから、その後もエベレストに2度挑戦し、いずれも失敗した。


栗城史多、「8度目の正直」でエベレスト登頂へ 「彼は“ただの登山家ではない”から面白い」大蔵喜福氏」https://abematimes.com/posts/4221638


大蔵喜福氏は上の記事にも登場している。この記事がアップロードされた時点では栗城氏はまだ現世にいた。


「8回目のエベレスト挑戦を揶揄する人もいますが、物事の本質は彼を批判することではなく、『どう理解するか』だと考えています。私が理解する彼の面白さは、彼が『ただの登山家ではない』ところにあります」

 

 「ただの登山家ではない」彼の正体は一体何か――。大蔵氏は続ける。



 「若い世代の人たちを中心に、なぜ彼は共感を集めるのか。それは、何はともあれ『行動を起こしている』こと。色々な意味で『私たちとは違う』ということが、それだけで面白い。『人間として面白いから応援しましょう』という流れは、ごく普通の事だと思います。やりたいことを突き詰めるという行為は、人間にしかできない。彼がそれを突き詰めた結果が「たまたま山だった」という理解です。言うなれば、彼は『人生の芸術家』。山という壮大なキャンパスに、山登りを通じて、自分の思いを描こうとしているだけ。その結果が曲がりくねっていようが、下を向いていようが、そんなことはどうでもいい事なんです」

最初は、「ハチのムサシ」*4なのかと思ったのだが、間もなくそれは的外れだということがわかった。寧ろ、

空にあこがれて
空を駆けてゆく
あの子の命は
ひこうき雲
という感覚に近いのだろうか。