『美しいアナベル・リイ』

美しいアナベル・リイ (新潮文庫)

美しいアナベル・リイ (新潮文庫)

数日前に大江健三郎『美しきアナベル・リイ』を読了。
この小説は


肥満した老人が、重たげな赤い樹脂製のたわむ棒*1を左手に、早足で歩いて行く。その右脇を、肥満した中年男が青いたわむ棒を握って歩く。老人が右手を空けているのは、足に故障のある中年男が重心を失った時、支えるためだ。狭い遊歩コースで擦れちがう者が興味を示すけれど、たわむ棒の二人組は、かまわず歩き続ける……
老人が(私だ)、不整脈を発見されて水泳を止めた時、クラブのコーチから努めて歩けといわれ、息子の、足を引きずる癖を直す訓練を兼ねようと乗り気になった。コーチは、日本の大きい棒を贈ってくれた。これを持って歩けば、息子さんも自然に足をあげるようになるだろう。それよりあなた自身、プールサイドで躓いてパタンと倒れるのを見ました……
(後略)(p.10)
というふうに始まる。この小説の最後のパラグラフは

ヴィデオ・カメラは、紅葉の色濃く照り映える林に囲まれた、女たちの群衆に分け入る。サクラさんの嘆きと怒りの「口説き」は高まって、囃しに呼応する人々は波をなして揺れる。その声と動きの頂点で、沈黙静止が来る。「小さなアリア」がしっかりそこを満たすなかに、サクラさんの叫び声が起こり、音のないコダマとして、スクリーンに星が輝く……(p.260)
である。現在形で始まり、現在形で終わる。最初のシーンに登場するのは「肥満した老人」と「肥満した中年男」(=「息子の光」)の男二人組。それに対して、最後のパラグラフには「サクラさん」と「女たちの群衆」。男で始まり、女で終わる。この男から女へという方向性はけっこう重要な意味を有していると思う。
「肥満した老人」(「私」)と「肥満した中年男」は、この散歩中に、後からふたりを追ってきた「私」の大学教養学部時代の同級生で映画プロデューサーの「木守有」とアメリカ在住の女優「サクラ・オギ・マガーシャック」(「サクラさん」)に声をかけられる。30年ぶりの再会である。これ以降、物語は現在(2004年)を暫し離れて、1975〜1975年、さらには1955年の松山に遡る。物語が現在に回帰するのは終章においてである。
1975年東京で、「私」は「木守」に再会し、「サクラさん」を紹介される。「木守」はクライストの「『ミヒャエル・コールハースの運命』をアメリカ、ドイツ、中南米、アジアの製作チームがそれぞれの映画に作り、クライスト生誕二百年祭にまとめて上映する」というプロジェクトを立ち上げていた。即ち「ミヒャエル・コールハース計画」(「M計画」)。「アジア版はいま経済的実力をつけてきている韓国が引き受けていたが、昨年の[脚本担当の]金芝河の投獄でダメになった」(p.42)。そこで、日本で撮影することになり、「私」が脚本を依頼されたのだ。「私」は高校時代の松山で「サクラさん」に出会っていた。ポーの詩「アナベル・リイ」とともに。1955年に17歳の「私」は松山の「アメリカ文化センター」で、8mm映画「アナベル・リイ」を観せられる。これは「サクラさん」の「庇護者」で後に彼女の夫となる米軍情報将校「デイヴィッド・マガーシャック」が「サクラさん」を〈主役〉にして撮ったもので、ポーの「アナベル・リイ」の朗読に「白い寛衣」を着て「お堀端の水際の芝生に横たわっている」(p.112)少女時代の「サクラさん」の映像が重ねられている。「私」も「サクラさん」も「アナベル・リイ」を最後までは観ていないのだが、このことはどちらにとっても心の痼りとなっており、特に「サクラさん」にとっては(それを知ろうとするのだが)もしそれが明らかになれば現実界が噴出してきて自我が崩壊しかねない〈原光景〉ともいうべき(抑圧された)経験になっている(実際、「サクラさん」は木守の〈ショック療法〉によって「アナベル・リイ」完全版を観てしまったために精神病院に入院する羽羽目になる)。「私」が脚本を担当した日本版『ミヒャエル・コールハースの運命』は児童ポルノ疑惑が起こって制作が頓挫してしまう。この1976年の児童ポルノ・スキャンダルは「サクラさん」の過去(完全版「アナベル・リイ」)と隠喩的な関係を結んでいる。
「私」は『ミヒャエル・コールハースの運命』を故郷で明治維新前後に起こった農民一揆へと翻案する。その一揆に纏わる『「メイスケ母」出陣』という芝居を敗戦直後に演じた「私」の母に会いに、「サクラさん」は松山を訪ねるが、物語の構成上で重要なのは、その際に「サクラさん」が「私」の妹である「アサ」と出会うことだろう。
『「メイスケ母」出陣』を巡る記述を少し切り取っておく;

――その演目の『「メイスケ母」出陣』というお芝居はもともとあなたの地方にあったのですか? とサクラさんは尋ねた。私などもひとり親戚に疎開したままだった地方で、戦地から復員したばかりの若い衆の、村芝居に連れて行かれた記憶があるけれど……
――はるか以前に、村にそういう芝居が伝わっていたのだろう……いまはそう思っています。それが外題と登場人物の名だけ、残っていたのでしょう。アサが谷間のお庚申様のお社に案内したと思います。あれを改築する費用くらいが、小説家になって私が母親にした援助ですが、以前はお社というより小さい倉のようなものだったんです。そこを毎年大掃除する。それが私ら家族の仕事でした。そこの虫干しで、中心に置かれていたのが、芝居で出陣して行く「メイスケ母」の衣裳でね。歌舞伎の女武者の、とでもいいたいような、古びているけれど豪奢なものでした。
母親と祖母が一晩だけ興行した芝居は、「四国歌舞伎大一座」の役者が脇役を固めるし、名前とは裏腹に小規模ながら、歌舞伎で訓練された音曲担当の人がついています。しかし、「メイスケ母」に扮しているので、素人の母親でした。
祖母が、じっと坐っている母親に大きい鬘をかぶせて、化粧をほどこして衣裳をつけさせ終ると、小山のようになりました。母親ひとりでは立ち上がることもできないので、祖母が芝居の間ずっと付き添っていたんです。
――全体にわたって、お祖母様が、指導されたようですね。その能力がおありだったんだわ。
――祖母は不思議な来歴の女性ですから……この祖母の若い頃、彼女を「メイスケ母」に扮させる前提で芝居が作られたんじゃないか……私はそう思っています。母親は、さきの衣裳をつけて、なんとなくそれらしい仕種をするほかは、台詞をのべるだけです。その台詞も、祖母が書いたものだったかも知れません。
この森のなかの土地にさ災厄が起こるたび、理不尽に殺されて、また自決させられて、鎮められないできた怨霊が作用している……  その代表が「メイスケ母」の御霊と呼ばれますが、そう考えられてきた。そして土地の人たちこぞっての、御霊を鎮める祭りが行なわれた、その名残りを再構成したものだったのじゃないでしょうか?
これは……説明する時間が必要ですが、私らの地方に明治維新の前後にわたって、一度ずつ百姓一揆が起こりました。その第一の一揆の後で、指導者「メイスケさん」の獄死があった。それは地方史に記録されているし、民間の伝承も多様に語られてきたんですが、それともまた別の次元で民衆的な感情に根ざした……御霊としての「メイスケ母」があるんです。
そしてそれが、あのお社に祭られている。
その世話も、由来はわかりませんが、私の家の女たちがやってきました。まず「メイスケ母」の御霊が村に災厄をもたらす、という信仰がある。代々、それを鎮めるための祭りが行なわれてきた。とくに大きい災厄があって、というのが発端でしょうが……また、そうした祭りの大規模なものをやれるだけの人口の増加、集落の富の蓄積もあったはずですが、御霊を鎮めるための芝居が興行された。それに使われた衣裳他を収めておく場所としてお社が建てられ、それを守る役割に私の家の女たちがあたってきた。
最初の芝居興行の後も、災厄は起こります。新しい災厄が起こるたびに……村の半数が壊滅した疱瘡、つまり天然痘の流行も伝えられています……御霊を鎮める芝居が行なわれなければならない。そこで祖母が管理することになる芝居小屋も建てられたのじゃないか? 私らの村から川に沿って降った隣町は、一時、木蠟の生産で栄えましたが、ウルシの実を採取する山仕事の働き手が、この村の「在」の人たちでした。それと関わって資産を作った家の、祖母は跡取り娘だった、と聞いています。ずっと同居していましたが、私の父とも母とも血のつながりはない人なんです。(pp.86-89)
終章「月照るなべ/蟖たしアナベル・リイ夢路に入り、星ひかるなべ/蟖たしアナベル・リイが明眸俤にたつ」では、「アサ」は「サクラさん」に次ぐ存在感を獲得している。というか、物語がそれまでの(男性である)「私」や「木守」を中心とした回想から〈女の物語〉へと転換している。「木守」もいまや癌を病み、「私」と一緒に「歩行訓練」をする存在になっている。私はこの『美しいアナベル・リイ』を書き続けてきた理由は「私はもとより奇態な風貌の男、木守も、主役の座をサクラ・オギ・マガーシャックにゆずるほかないと明らかになるのを待つためだった」と告白している(p.219)。これには、準主役としての「アサ」を付け加えるべきなのかも知れない。
「アサ」はかつて母親が演じた『「メイスケ母」出陣』の「口説き」を、その芝居をかつて観た老人たちからの聞き書きを通じて再構成しようとしている。一方で、彼女は、「私」が「サクラさん」と再会する以前から「サクラさん」と「連絡」を取り続けている。そして、「サクラさん」は「あの森の奥に芝居小屋の舞台を再建し」、「アサ」が再構成した「口説き」をそのまま映画化しようとする。自らが「私」の母親に同化しつつ。

さて、この『美しいアナベル・リイ』は、特にその中の間テクスト的な連鎖によって、それ自体を重層的な隠喩の集積として読むことができる*2。どちらも物語の中で軽くはない意味を有しているポーの「アナベル・リイ」とナボコフの『ロリータ』*3の関係はいう迄もない。それから、クライストの『ミヒャエル・コールハースの運命』。ここではこの物語は世界各地の物語に翻案(ローカライゼーション)されるという設定になっている。「私」はそれを自らの故郷で起こった百姓一揆の物語に翻案する。それによって、『万延元年のフットボール*4以来の大江健三郎の諸作品が喚起されるとともに、クライストが描いた宗教改革期の独逸(神聖羅馬帝国)と大江健三郎が描く幕末・維新期の松山一帯が隠喩的に結びついてしまうことになる。それだけではなく、金芝河が翻案しようとしたという「東学党の乱」の時期の朝鮮半島とも。これらは、包摂関係(支配−従属関係)などなく、何かしら類似しているということだけで、対等な仕方で結びついてしまう。勿論こうした隠喩的関係はこれだけではない。例えば、「サクラさん」と「アサ」と「私」の母親との関係。また「私」と「光」と「木守」との関係。

ロリータ (新潮文庫)

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