「アカデメイア派」(メモ)

承前*1

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)

アナス&バーンズ『古代懐疑主義入門』(金山弥平訳)から。
懐疑主義者としてのプラトン主義者を巡って。


(前略)ピュロン以後、二人目の著名な懐疑主義者を生み出したのは、プラトンの学派であった。ピネタのアルケシラオス(前三一五−前二四〇)は、アカデメイアの学頭となり、学派を懐疑しゃぎへと転向させた。後に新アカデメイアと呼ばれたこの学派は、自分たちが過去一世紀にわたるドグマティックなまどろみから目覚め、今や、プラトン哲学の真の精神に立ち返りつつあるのだと主張した。そして、その後二百年の間、アカデメイア懐疑主義の立場を変えることなく、二人の指導的人物、アルケシラオスカルネアデス(前二一四−前一二九/八)という並外れた能力と精緻さを併せもつ思想家たちを世に送ったのである。(p.49)

(前略)アルケシラオスと彼の弟子たちは、何ごとも証明してはならないと表明するような積極的主張をなす懐疑主義者ではなかった。むしろ彼らは、本質的に批判者であった。彼らの哲学様式は対人論法(ad hominem)のそれであって、その典型的な議論というのは、ある一人のドグマティスト(ストア派がふつう彼らの標的であった)の教説の一つをとらえて、それを不合理に追い込もうとするものであった。彼らはこう論ずるであろう――「もしもあなた方、ストア派が正しいとしても、実際にこれこれであるとすれば、われわれは何々についての真実を知ることができなくなる。あなた方ストア派は、あなた方自身の原理によって懐疑主義の側に立つことになる」
かつてピュロンにとっては、懐疑主義は一つの「生き方」であった。アカデメイア派の人々とその論敵たちとの議論のなかで、懐疑主義は専門的哲学の一部となった。そして同時に、認識論の問題が哲学の基本的問題とみなされるにいたったのである。ヘレニズム諸学派の哲学者たちは、以前の哲学者たちもむろんそうであったように、多くのことを知っていると主張していた。アカデメイア派の人々は、それらの主張がすべて根拠のないものであることを示そうと試みた。しかし、そのために彼らがとった方法は、相手の説にとって代わる何らかの見解を支持して論じることではなく*2、どんなドグマティックな見解に対しても、その信憑性に疑問をさしはさむことであった。「どういう根拠に基づいて、あなたはそう信じるのか」という質問が、哲学的議論の主導的問いとなり、「そう信じるいかなる理由もあなたにはない」という言葉が、懐疑主義の決まり文句となった。アルケシラオスは彼の時代のデカルトであった。この二人の思想家はどちらも、認識論を哲学の第一の部分として取り扱うように同時代の人々に促したのである。(pp.50-51)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180127/1516986909

*2:そんなことをしたら、別の流派のドグマティストになってしまう。