キラキラと時間性

「きらきらネームは遠い将来が想像できないDQN親とハリウッドセレブの特権なのか?―Lack of imagination leads to imaginative baby names?」http://oharakay.com/archives/2868


米国在住の方なのだろうか。所謂「キラキラネーム」*1流行の社会的背景についての考察。大枠としては、山田昌弘氏の『希望格差社会』の議論に近いのか知れない。また、もっと広いパースペクティヴを持ったものとしては、宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』も参照すべきか。私が面白いなと思ったのは、「きらきらネーム」を命名する人の時間性というか時間的パースペクティヴが変容(収縮)しているという示唆である(勿論、これは実証を要することである)。曰く、


きらきらネームの話にもどすと、今の時代、二十歳そこそこでまだ自分も大人になりきれていないような人たちが人の親になった時、生まれた赤ちゃんに対して、これから数十年、この子が大人になったとき世の中がどうなっているのか、自分たちがその時、どんな暮らしをしているのかをきちんと具体的に想像するのはとっても難しいことに違いない。

せいぜい想像力が及ぶのが片手で数えられるぐらいの年数でしかなかったら? 保育園や幼稚園にやるぐらいの時までは、今の生活を続けることができるかもしれない、でもその先は、自分に職があるのか、今の生活を続けていける収入があるのか、孫の面倒を見てくれる親は健在なのか、今の相手と結婚したままなのかさえもおぼつかないのに、どうやって子供が成人し、自分たちが年老いたときの生活が想像できるだろう?

だから、幼稚園児ならそんな名前もありかな、ぐらいの気持ちできらきらネームを付けるのではなかろうか?

母親が幼稚園のお迎えに行って、「変わった名前ね」と同じぐらいの歳のママ友や保育士さんに言われて、自分の思い入れを語りながら説明するぐらいなら想像できる。父親がバイト先で同僚に「オレ子供が産まれたんだぜ」って言って、名前の由来を話すことぐらいなら想像できる。光宙(ぴかちゅう)くんとか、美妃(みっふぃー)ちゃんって、そういうことなんじゃないかな? 一寸先は闇、だからせめて今はきらきら。

でも、その子がこれから一生、大きくなって学校に行ってクラス替えの度に、そしてそれからずっと社会に出てからも、結婚相手を探すときも、自分で自己紹介をする度に、相手に「え?読めない」「へぇ〜、変わってるね(プっ)」と言われながら説明しなければならないことまでは想像できないわけだ。

自説を補強するために、(やはり)〈先の読めない〉階層としての米国のハリウッド・セレブの例が挙げられている。
ふむふむと頷くのだが、ちょっと待てよとも思う。(このエントリーに限らず)「きらきらネームを付ける」のは〈負け組〉というのが話の前提になっていると思う。しかし、新自由主義のご時世においては、「 一寸先は闇」というのは〈勝ち組〉だって(少なくとも原理的には)変わらない。新自由主義においては、労働者が長期的なライフ・プラン(キャリア・プラン)を立てることが困難になるが、それと同時に企業や経営者だって長期的な経営戦略や投資戦略を構築することは困難になる。そんな悠長なことを言っても、性急な株主たちは承知してくれないだろう。重要なのは長期的な成長ではなく、短期的なキャッシュ・フロー時価総額だということになる*2。その皺寄せを最もラディカルな仕方で引き受けるのが〈負け組〉だとはいっても、新自由主義的な経済のあり方は私たちの時間的パースペクティヴを収縮させ・狭隘化する一般的な傾向があると言えるだろう。だとしたら、「きらきらネーム」は(程度は違っているにせよ)〈勝ち組〉に浸透している可能性がある。 
〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

米国の話;

今、子供に一風変わった名前を付けているのは、お茶会連中の若い世代、日本のヤンキーな親たちと全く同じだ。赤い州のトレーラーハウスに住んで、ウォルマートで買い物し、ジャンクフードをがばがば食べてぶくぶく太り、一日中リアリティー番組ばっかり見ていて、進化論を否定するような人たち。

さすがに日本と違って、漢字と読み方が全く一致しないという文字通りの「離れ」ワザは使えないので、発音だけ聞くとありがちな名前なのに、綴りが変わっている、というか、もしかして親がバカで正しい(一般的な)綴りがわからなかったんじゃないの?というような名前が主流。アシュリーだったら Ashleyと普通に綴らないでAshleeとか、Jordanだったらオーソドックスなんだけど、ひねってJaydenとか。その上、今まで聞いたこともないような名前も出てきた。ネヴェーアNeveahとか。これって「天国」を反対から綴ったものだとか。天国の反対っていえば、地獄じゃねーか、というツッコミを入れたくなる。

「茶会」*3の人たちってそういう人たちだったんだ。エスニシティとかも気になった。カトリックでは子どもの名前は親が付けるものではなく代父(godfather)が付けるもので、代父との間には第二の親としてインセスト・タブーまで発生する。日本に戻ると、俺の子どもの場合も画数がどうのこうのと(子どもにとっては祖父母に当たる)俺の親がけっこううるさかった。「きらきらネーム」を付ける夫婦というのは家族や親戚から二重の意味において自由だということもあるのではないか。
ところで、「ちょうど今、同じように経済が上向きで国が一体となって経済力を付けようという状況にあるインドで「また、女が産まれちゃった」ってなシチュエーションで付けられる「Nakusha(要らない子)」という名前のインド人女性が改名を求めてクラスアクション裁判を起こしているというニュースがあったばかり」という。日本でも(さすがに現在存命中の方々には少ないだろうけど)、トメとかスエという名の婆さんが少なからずいたよ。男だと、留吉とか末吉とか。