「忠実信徒」(メモ)

徐友漁*1「”忠実信徒和群衆運動”的中外経験」『上海書評』2011年9月18日号、p.8


日本では『大衆運動』としてかつて訳本が出ていたエリック・ホッファーThe True Believer: Thought on the Nature of Mass Movementの中国語訳『狂熱分子:群衆運動聖経』(廣西師範大学出版社、2011)の書評。
ところで、『大衆運動』を読んだことがあるかどうかという記憶は定かではない。図書館で手に取ったことはあるのだろうか。ただ、この本は或る時期まで政治にせよ宗教にせよ、「運動」を研究した本や論文では定番的に参照・引用されていたので、それらを通じて内容を知ったというのはたしかではある。


群衆運動不需要相信有上帝、一様可以興起和伝播、但它却不能不相信有魔鬼。通常、一個群衆運動的強度它跟這個魔鬼的具体性與鮮明度成正比。
群衆運動喜歓鼓吹不切実際和不可能的任務、這也正対失意者的胃口。那些一般事情都不好的人喜歓去做不可能的事*2
「運動」にとって神(「上帝」)の存在よりも悪魔(「魔鬼」)の存在の方が重要だというのは、昨今のポピュリズムについても示唆的であろう。
後半において、徐氏は「忠実信徒」或いは「狂熱分子」の例として文化大革命について叙述している。「但是、”文革”以”群衆運動”為表、実質是”運動群衆”、”文革”中被吹嘘和頌揚的”人民群衆的自発性、主動性、創造性”背後是欺騙、教唆與操縦」。
「造反者」の「狂熱」の後の自己否定について;

(前略)中国文化大革命中狂熱的造反者併非人人都執迷不悟到底、其中少数人経過艱苦的反省與思考、有比較徹底的醒悟。他們的反思與以前自以為捍衛真理、追求正義的熱情與奮不顧身是相同的、但態度和方法是冷静、理性的、其間充満懐疑與自我否定。有人為此付出了青春歳月甚至生命的代価。
江西省贛州の「造反派群衆組織頭領」だった李九蓮。彼女は1969年に劉少奇を弁護する発言をし、「現行反革命」として逮捕され、銃殺された。「生命的代価」。また、1974年に広州で出現した「李一哲」名義の「関於社会主義民主與法制」という「大字報」――「対文化大革命作了深刻的剖析和尖鋭的批評、並指出中国応走民主與法制道路」。「”文革”造反者中先進分子反思和否定”文革”的標志、探索中国民主道路的歴史性文献」。


手許にホッファーの『現代という時代の気質』(柄谷行人訳、晶文社、1972)があるのだが、その巻末の「E・ホッファーについて」という文章で、柄谷氏はThe True Believerについて以下のように書いている;


彼がとりだしたのは、もろもろの観念や教義ではなかった。彼がみたのは、むしろ観念や教義は現実に由来するよりも情熱的な精神が選んだ形式にほかならぬこと、さらに情熱的な精神とは自己の自己自身からの逃避の形式、自己を別のものとして世界に対して確証しようとする形式にほかならないということである。おそらくこのことは、アメリカの精神分析学者や社会学者がいっていることと大部分重なるといえる。しかし、ホッファーはたんに「自分」について語ったのである。社会的な不適合者の吹きだまりのなかで、彼は自身、失意と絶望から全面的破壊と救済への狂信に転換する心理的現実を熟知していたにちがいないからである。ホッファーもまた極端なタイプの人間であって、極端を知らぬ精神にものが視えるということはありえないのである。さらに、心理学者も社会学者もまた「情熱的な精神状態」に陥ることをまぬかれない。人間を観察することと、「自分」を観察することはまったく別の事柄に属するからだ。
ホッファーがいおうとするのは、自律的であろうとする「近代」の精神がその困難に堪えきれないでさまざまな仮象の下に重荷を預けていかざるをえないということである。大衆運動はそのあらわれにほかならず、また大衆運動の熱狂の底には必ず、安定したアイデンティティを喪失した、あるいはそれを放棄した個人の不安がある。この不安は自由と裏腹に存在する。ひとは自由を犠牲にしてでもこの不安を解消しなければならない。(p.143)
現代という時代の気質 (晶文選書)

現代という時代の気質 (晶文選書)