パラダイム・シフト(笑)が必要なのかも知れない

「努力が報われるという共同幻想http://d.hatena.ne.jp/Room-B/20110227/p1


少し以前のエントリーではあるが、偶々見つける。
曰く、


考えてみれば、ゆとり教育には、そういう競争ではない価値観を作り出す、という期待があったのかもしれません。でも少子化と景気の低迷のせいもあるのでしょうが、それはあまり成功したようには見えません。むしろ社会の中ではタコ壺の中のちまちました競争が激化して、多様化には失敗しているような気もしますが、それとゆとり教育の関係もわかりません。たぶん誰にもわからないでしょう。

競争に勝って生き抜く、という価値観は自分の中にも植え付けられていて、自分の中から「競争」という思い込みをなくすのはなかなか容易ではありません。でも、競争に勝つ、ということはひとつの幻想であって、見かけがどうであれ、競争することにはほとんど意味がないのではないかと思い始めています。少なくとも自分は競争しないで生き残ること、生き残りさえすれば勝たなくてもそれでいい、そういう価値観で暮らしたいと思います。こういう考えが広まると世の中もっと暮らしやすくなるはずですが、そのためは「競争しない」という確固たる信念が必要なのではないかと思います。しかし、その信念の拠って立つ場所をまだ見いだすことが出来ていません。

これを読んで・思うのは、(新自由主義者のような)「競争」を称揚する人にしても、(この人のように)「競争」を批判する人にしても、「競争」の意味がかなりすかすかに切り縮められているんだなということ。つまり、「競争」というのは、焼肉定食もとい弱肉強食、Live and let dieとしてしか理解されていない。そうではなくて、「競争」には切磋琢磨、或いは他者と刺戟を交換しつつ自らを高めてゆくという意味もあるわけだ。そのような意味での「競争」は当然のこととして、他者との共存、また或る種の平等主義を含んでいる。これについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100816/1281982706で言及した太子堂正称「競争と格差――何のために競うのか」(佐藤方宣編『ビジネス倫理の論じ方』*1pp.119-154)を参照のこと。また、その際にハンナ・アレントのいう(これまた誤解に塗れた)agonという概念*2にも触れたが、これについては、Bonnie Honig Political Theory and the Displacement of PoliticsとDana R. Villa “Democratizing the Agon: Nietsche, Arendt, and the Agonistic Tendency in Recent Political Theory”(in Politics, Philosophy, Terror, pp.107-127)を再度マークしておく。俺の思考も進歩がないよねとつくづく思うけど(汗)、最近の思考としてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110609/1307650973に関係している。
ビジネス倫理の論じ方

ビジネス倫理の論じ方

Political Theory and the Displacement of Politics (Contestations)

Political Theory and the Displacement of Politics (Contestations)

Politics, Philosophy, Terror: Essays on the Thought of Hannah Arendt

Politics, Philosophy, Terror: Essays on the Thought of Hannah Arendt

ゆとり教育*3は(制度的な意味では)完全に終わったということになる。しかし、「ゆとり教育」の総括というのは終わっていない。取り敢えず言えるのは、左翼や右翼の様々な思惑が込められていたのだろうけど、どちらも〈意図せざる結果(unintended consequences)〉に戸惑っているということだろう。「ゆとり教育」については、(それぞれ異なった理由で批判的なスタンスに立っている)岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会へ』、佐藤学『学力を問い直す』をマークしておく。
ゆとり教育から個性浪費社会へ

ゆとり教育から個性浪費社会へ

学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)

学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)

現実の社会的状況を鑑みれば、上で述べた切磋琢磨としての「競争」というのは所詮〈綺麗事〉にすぎないのかも知れない。しかし、現場の切迫から離れた知識人には、きれいごとを言い続ける義務もあるのだということは言っておきたい。