「徳勝門」(メモ)

北島『城門開』*1からのメモ;


北京有句老話説:”先有徳勝門、後有北京城。” 徳勝門在元大都時叫建徳門。一三六八年、徐達率十万大軍破城而入、元順帝従建徳門逃跑、遂改称得勝門。明成祖朱棣号称徳治天下、再改為”徳勝門”。一四二〇年宰相劉伯温重建北京城、元大都北城墻南移両公里、修了城門和瓮城、拡展了護城河、廓清此後近六百年北京的城貌。北京内城有九個城門、各有各的用途、徳勝門是専走兵車的。一六四四年、李自成在徳勝門外打敗明軍、破城而入、崇禎皇帝在煤山自縊。
従上世紀初起、随帝制消亡和現代交通的需要、北京城門楼和城墻一拆再拆、所剰無見。徳勝門也越拆越小、僅有箭楼幸存。六十年代初的徳勝門、周囲城墻依在、但破敗残缼、荒草瑟瑟。護城河従箭楼前流過。都市與農村以城墻為界、出了徳勝門就是北郊、一片荒涼。在伝説中、那是孤魂野鬼出没的地方。(「釣魚」、pp.48-49)
なお、北島が住んでいた「三不老胡同」から「徳勝門」までは約3kmであったという(p.49)。
元の大都と現在の北京について、春名徹『北京――都市の記憶』*2に曰く、

元の大都の輪郭は、現在、西土城路、北土城路、東土城路などの通りの名が示している。南側はいまの長安路の線に相当する。北面と西面の一部は現在も堀を残し、なかば土手のようにしか見えない土塁の名残は周囲を緑化して「土城遺址公園」となった。(p.17)
大都については、また竹内実『北京』pp.136-152。それから、北京の城壁の破壊については、陳凱歌『私の紅衛兵時代』に記述あり。
北京―都市の記憶 (岩波新書)

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北京―世界の都市の物語 (文春文庫)

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私の紅衛兵時代?ある映画監督の青春 (講談社現代新書)

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