「オタク」と原子力?

先日「カトラー」氏の以前のエントリーをチェックしようとしていたら*1、氏の新作に目が止まった;


原発と知識人、墜落した鉄腕アトムたち」http://news.livedoor.com/article/detail/5578826/


全体としてまあ共感はできるのだが、幾つかの素朴な疑問。
先ず、


原子力技術とは人類にとって夢の技術なのだろうか?こういう問いが生まれてくること自体、この国の特殊事情に起因している。つまり、他の欧米諸国にとって原子力開発とは、核兵器の主要原料プルトニウムの生産と表裏一体のものであり、原発が持っているリスクを勘案しても、核抑止力を保有する必要があるという明確なバランスシートが存在している。他方、日本においては、原子力エネルギーの「平和利用」のみの片肺飛行であるために、原子力技術は「絶対安全」でなければならず、いわゆる「安全神話」を形成するしかなかった。
日本だけでなく、所謂冷戦時代に東西どちらかの陣営に属した諸国はどこでも〈核〉については親分である米国や蘇聯にお任せするというスタンスだったのでは? 例外的に、ワシントンやモスクワの〈核の傘〉の下に入るのを拒み、独自の存在感を示そうと、核武装を行った国として、仏蘭西及び中国があるけれど。言いたいのは、こういう言説は独逸その他の国との比較を経由しなければ駄目なんじゃないかということ。
そして、「オタク」が導入される;

本当は日本においても原子力が国策となっていく過程では、中曽根康弘がその中心的役割を担っていたことからもわかるように、日本のエネルギー供給を安定化させるという国際社会に対する表向きの理由とは別に、核武装の能力を担保するという極めて政治的な裏の意図が存在した。その密かな意図を隠蔽するためにも、原子力開発の技術者は「技術オタク」に徹すること、あわせて「原子力安全神話」を護る神官としての役割のみが求められたのである。

かくして、原子力の平和利用、原発開発に関わる知識人、科学者たちは、現実世界とは切り離された「鉄腕アトム」の世界の住人として際限なく幼児化することとなり、政治的、社会的文脈から切り離されて、特殊な技術用語だけが行き交う「オタク世界」が形成されていったのである。今回のメルトダウンに関する東電の会見や原子力保安院の対応を見ていると、全人的な判断が求められるはずの国難の真っ直中においてさえ、技術用語や手続き論ををこねくり回す救いようのない幼児性が露呈する。

「オタク」の世界が個人の趣味のことであればむしろ結構だが、原子力は一国どころか世界の存立にも関わる巨大リスクを孕んでいる。こんな現実とかけ離れた言葉遊びをやられている間に、原子炉は空だきされメルトダウンが発生してしまったのではないかと、世界中がこの原子力村の幼児性に恐怖とフラストレーションを募らせている。
国内からも「もう、東電や原子力村のオタク連中に任せておけない、米国やフランスの分別のある奴らに全てを任せて事態を収拾してもらおう」というような声さえ上がり始めている。

この文脈ではあまり影響はないとは思うけど、「技術者」と「科学者」がごっちゃになっている。しかし、「技術」と「科学」、(大学の学部で言えば)工学部と理学部には重大な差異がある。
それはともかくとして、「オタク」という言葉も曖昧である。たんに浮世離れしたマニアックな人を指すのか、それとも〈二次元〉とか〈非実在〉に欲望を集中するあの〈萌え〉系のキモオタ? 「カトラー」氏が念頭に置いているのは前者に近い意味なのだろうけど、果たしてそうした意味での「オタク」が日本における〈原子力村〉をここまで酷くしたといえるのか。因みに、前者の意味における「オタク」的な心性を持たない人は、理系であれ文系であれ、〈学者〉にはなれないだろう。或いは、そういう「オタク」性が少し足りなかったが故に却って事態が拗れてしまったのではないかとも考えられる。以前にも記したように、「科学技術はシステムとしての〈原発体制〉を構成するサブシステムのひとつにすぎない」。「科学技術というシステムでは、政治、電力会社、官僚制といった他のサブシステムの振る舞いが参照され、それに協調したり・反発したりしながら、全体としての〈原発体制〉のサブシステムとして〈原発体制〉を作動させていく」*2。つまり、科学技術固有のロジックに拘るよりも、「他のサブシステム」の声に耳を傾け過ぎてしまったということはないのか。全く非社会的でKYな「オタク」だったらそういうことにはならなかったのでは? 「カトラー」氏に「オタク」と揶揄されている人たちは、他方では会社員や官僚でもあり、「幼児」というよりは(悪い意味で)〈大人〉だったということなのではないか。