カーライル以来?

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110518/1305646372に対して、


慧遠(EON) 2011/05/23 04:45 ロジェ・カイヨワヒトラー全体主義的統治について言及しているのは、『本能 その社会学的考察』(思索社)の中の「? カリスマ的権力 偶像としてのアドルフ・ヒトラー」(p.186-p.217)だと思ったので、参照しました。
カイヨワは、「彼が編み出した支配体系は、そうした権力がおよそ相容れないと思われていたタイプの社会に、このカリスマ的権力という型を適用したものと見なすことができる。この操作の本質は一言で述べることができるだろう。つまりその操作とは非常に規律正しい政党を組織することであり、そこで指導者の人格に対する忠誠がもっとも重要とされており、党に対して大きな貢献をなすことが義務であると誰もが信じているのである。この党は国家をモデルとして組織され、異なった原理に基づいていながらも、国家の模写を提供している。これこそが決定的な改革である。……かくして国民全体がヒエラルキーをなしたその指導者たちの手中に収まることになるわけである。」ものとして理解し、「大切なのは、この機構がそれに属さないものの存続を許さないと言うことである。」ことからくる「熱狂」が持つ「…一つの意図が、突如としてそれを支配の原動力に変えたのである。」「その結果として、指導者の姿はどのようなものになるであろうか? それは非常に深い変形を受け、神話の範型と似たものとなるのだ。インド=ヨーロッパ神話は、…主権者として、法治者と霊威者という、お互いに対立しながら相補い合う二つのイメージを提供してくれる。」……「ここでヒトラーが霊威的主権者のもつ神話的特徴のすべてを帯びて一挙に登場するわけであるが、それは、一方では彼の勢威の性質そのものが彼にそれら特徴を誇示することを要求したからであり、他方では民衆の想像力が本能的にそうした特徴を彼に付与することを認めたからであった。」としている。
カイヨワによると、確かにこの霊威的指導者というカリスマ型のヒトラーを、国家社会党の創設者ゴットフリート・フェーデルが救世主としてキリスト、ルーテル、サヴォナローラマホメットなどと比べている(また、同時代のルデンドルフも、芸術家のような思考・行動をも持つ似たような肖像を描いているし、第三帝国の大臣かつ御用学者のワルター・ダレが「人民の偉大な指導者としいうものは《その時代に反し、その時代の論理に反して》彼を立たしめる、ある内的で神秘的な感情に従うものであると断言している。」)し、更にこの「大衆の情熱を分けもつ」カリスマ的主導者である「贖主はまた救世主でもある。彼は過去の過ちを償うものなので、現在の決定に対する責任を負わねばならない。彼はドイツ人のそれぞれを、その不安と難問から解放してやる。」ものとしてあり、そこでの大衆は「ただひたすらな服従だけが要求される。……今後は選ばれたる者の全能の力にゆだねられないようななにものも存在しなくなるのだ。……すべての者が絶望している時でも、われわれはなを彼に希望を託す。」のであり、そして「《…総統よ、われらの生命を召せ、われらからすべてを奪え、われらが肉体も魂も取れ、汝の手の中に、われわれはおのが運命をゆだねる》」と宗教的な信仰をなすのである。
このような政治的価値と宗教的価値との融合の性格についての、「ある老闘志がヘルマン・ラウシュニングに告白したものといわれる」一文の内容として、「《……その事業を完成するために総統を犠牲として捧げねばならぬような日があるいは訪れるかもしれない。党におけるその同志たち、その信奉者たちはその時こそすすんで彼を犠牲として捧げねばならない。ヒトラーが真に神秘的な像と化した時、はじめて彼の呪術的権力の深遠な全容が明らかになるであろう》」という、「神の死がもたらす豊穣な力に対する信仰を蘇えらしている」事柄について言及している。しかしながら、「みずからを《犠牲とするメシア》としての死を想定されていた」との分析は、カイヨワ自身によるものではなかった。
かかる考え方はやはり異常な夢想であるが、「……これらの考え方を霊感させたのはやはり現実そのものなのであり、…これらの考え方は、組織の論理を飛躍させ過ぎているというだけのことなのだ。」のであるけれども、「ただそれらの考え方が政治的利用価値を失っているという限度において、本気で問題にされることがないというに過ぎないのである。」としている。また、この神秘主義は、とりわけ世俗的に外観でカムフラージュしようとすることから、「指導者は霊威者としての姿をはっきりと示してはいないのだし、たとえ彼に盲目的な服従を捧げるとしても、それは類を絶した能力が、ほとんど超人的な形で彼にその任務の遂行を可能ならしめたからというに過ぎない。しかもこうした能力も常人の知性の延長であり完成である。」とされる。それゆえ、「その他の数多くの無意識的中間物もカリスマ型の権力を単なる機能型の権力へと導いてゆくが、機能型の権力において、指導者の権威は彼が果たす職務に由来するものなのであり、彼の評判はその職務を果たす際に彼が発揮する練達ぶりに基づくものなのである。」と言われる。
そして、「アドルフ・ヒトラーとその統治様式の場合をみると、カリスマ的魅力の才能のもつ役割が優勢である。それは好んで様々な宗教的性格を装うが、近代政治生活の一般的な習慣と要求とが既成事実となっているとき、こうした性格はほとんど考えられないものである。結局、こうした比率と価値との転倒がカリスマ的権力の現代的課題を規定するものなのである。」と、カイヨワは指摘していた。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110518/1305646372#c1306093538
宮田光雄氏も『ナチ・ドイツと言語』の中で「慧遠(EON)」さんが示された箇所(の一部)を直接引用しています。さて、ムッソリーニヒトラースターリン全体主義トリオ以前のヨーロッパにおいてカリスマ的な独裁者というとナポレオン、さらに遡ってオリヴァー・クロムウェルということになるでしょうか。宗教的聖者と政治・軍事的カリスマを一括的に「英雄」として論じた端緒は多分トーマス・カーライル*1、特にその『英雄崇拝論』でしょうけど、英語圏以外でのカーライルの影響力についてはよくわかりません。なお、彼のいう「英雄(hero)」はシェークスピアのような〈文豪〉も含んでいます。『英雄崇拝論』の和訳本は現在入手困難になっていますが、英語の原文はhttp://www.fullbooks.com/Heroes-and-Hero-Worship.htmlで読めます。
英雄崇拝論 (岩波文庫)

英雄崇拝論 (岩波文庫)