埴谷から上野へ

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110131/1296441629に対して、


osaan 2011/01/31 13:45
もう『死霊』は忘れられてしまうのでしょうか。
埴谷氏のお宅に2度ばかり伺った(仕事関係で)ことがありますので、何やら寂しいですね。
件の小説はカントがベースになってるとおっしゃってましたが…
ちなみに『死霊』は「しりょう」ではなく「しれい」と読みます。
ご存知かもしれませんが、一応。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110131/1296441629#c1296449142
いつもいつもどうも。
さて、埴谷雄高についてはあまり馴染みがないのですよ(orz)。エッセイの類は何冊か読んではいるのですが。というか、生の埴谷を読む前に、埴谷に対する否定的な評価を読んでしまい、埴谷を読もうとする気が萎えてしまったという感じですが。コム・デ・ギャルソンを巡って吉本隆明と論争していた頃、中上健次コム・デ・ギャルソンっていったい何だ! と思って成城から態々小田急と地下鉄を乗り継いで買いに行った大岡昇平は(作家として)埴谷よりもえらいと言っていました(たしか、『朝日ジャーナル』の座談会で)。また、その頃中上が酔っ払って埴谷宅に脅迫電話をかけたという都市伝説(?)もあったのですが。
埴谷雄高で思い出したのは、上野千鶴子氏が埴谷をけっこうな勢いでdisっていたこと(「生き延びるための思想」『at』0、2005、pp.25-26)。これは埴谷雄高論でデビューした池田晶子を批判した序でという感じではあるけど*1
クォータリー あっと 0号

クォータリー あっと 0号

また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110118/1295373044に関連して?

だいたい、私は「ネオ・リベ」なんかと死んでも一緒にされたくないわけです(笑)。「ネオ・リベ」とは「優勝劣敗」、「自己決定・自己責任」の論理ですから。しかも土俵とそのルールが、最初から「勝ち組」に有利に設定されている欺瞞的なゲームときています。だから『当事者主権』(中西正司との共著、岩波新書、二〇〇三年)を書いたときも、英文の訳語を考えましたが、「当事者主権」を「セルフ・デターミニズム」とは訳してくれるな、と。世の「自己決定・自己責任」論者とは、絶対に混同されたくない。あえてそれでも言おうとするなら、「自分のことは自分で決める」と大和言葉で言いたいんです。(p.22)
当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))