教育は投資か問題(by Stanley Fish)


Stanley Fish*1 “The Value of Higher Education Made Literal” http://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/12/13/the-value-of-higher-education-made-literal/


スタンリー・フィッシュ先生、今年10月に英国政府に提出された高等教育改革案”Securing a Sustainable Future for Higher Education”*2を批判する。フィッシュ先生によれば、この報告では高等教育は最早「公共財(a public good)」として捉えられておらず、高等教育の「価値」は高収入の職に雇用される可能性の増大に、高等教育への学生の参加はそうした自らの「被雇用可能性」のための「個人的投資」に還元されてしまっているという。また、それは「被雇用可能性」増大を保証するわけではない人文学や大方の社会科学の切捨てに繋がる。フィッシュ先生が結論として述べているところによれば、こうした経済学的には合理的かも知れない新自由主義的な教育改革は〈知識の社会的配分=流通(social distribution of knowledge)〉*3における致命的な格差を帰結することになる。つまり、将来、労働者階級の息子が政治哲学者になったり、移民の息子がジョン・ミルトン研究者になったりする*4ことは、昔はそんなこともあったねという「伝説」にすぎなくなってしまうだろうと。
教育=「投資」という言説に関しては、以前


教育=「投資」という図式を自明なものとして使用してきた。しかし、このいい方はとてもけったくそ悪い。実は教育=「投資」という図式が蔓延すればするほど、教育への公的資金を削減しろという新自由主義的見解も同時に蔓延していく。「投資」だったら受益者負担・自己責任でやれというのは理の当然。それから、教育は「投資」だと気張っている段階で既に負けているだろうという感じもする。別段気張ることもなく、3月末になれば桜の花が咲き、6月になれば紫陽花が咲くのと同じように、人間も10代後半になれば大学へ行くものだと考える階層もあるわけで、こうした〈自然体〉階層と気張り階層との格差は広がることはあっても縮まることはないような気もする。教育=「投資」という図式に同情すれば、そうでも言わなければ「教育」を社会的に正当化できないという事情はやはりあるわけで、そのような状況を作り出しているanti-intellectualismを問題にしなければいけないだろう。勿論、anti-intellectualismに左右なし。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100729/1280429288
と書いたことはあるのだが。
ところで、


Dan Hind “The British Library embodies our civilisation” http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2010/dec/27/british-library-cuts-public-private-investment


は、大英図書館(The British Library)が公費支出の削減と200以上の雇用のカットに直面していることに対する批判。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080715/1216088636 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090107/1231339106 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100616/1276631039

*2:http://hereview.independent.gov.uk/hereview/report/

*3:これはフィッシュが使っている言葉ではなく、私が現象学的社会学の用語を踏まえて使っているもの。

*4:これはスタンリー・フィッシュ自身のこと。