「偶然」と「音楽」

偶然の音楽 (新潮文庫)

偶然の音楽 (新潮文庫)

ポール・オースター『偶然の音楽』を読了してから2週間か3週間経つ。
幾つか感想をメモしておく。
先ずタイトルの『偶然の音楽(The Music of Chance)』。「偶然」とは何なのか。また、「音楽」とは? この小説の中で起こる(物語にとって)重要な出来事はすべて偶然に起こるといっていい。主人公のジム・ナッシュに「三十年以上会っていなかった」(p.7)父親の死によって20万ドルの遺産が転がり込むのも偶然である。また、彼が消防署を辞めて放浪生活を始めるのも、「ひとときの衝動に駆られて、名づけようもない焦燥のせい」である(p.15)。さらに遡って、


(前略)消防士の試験を受けたのもちょっとした気まぐれだった。ある夜タクシーで乗せた客が*1じき試験を受けるところで、どうだいあんたも一緒に受けてみないか、と誘ってくれたのだ。その男は試験に落ちたが、ナッシュはその年の最高点で合格し、気がついたらもう、四歳のとき以来考えたことも無かった職を与えられていたのである。(ibid.)
それから、ギャンブラーのジャック・ボッツィを拾うのも偶然。ナッシュとボッツィはウィリアム・フラワーとウィリアム・ストーンという二人組の奇妙な富豪の屋敷に招かれてポーカーの勝負をすることになるが、この2人が大金持ちになったのは宝籤で2700万ドル当たったからであり、これも偶然である。ナッシュとボッツィは結局二人組に負けて、一文無しになってしまうのだが、これも偶然。しかしながら、この小説における最大の「偶然」はやはり結末だろう。〈悲劇〉でさえない。〈悲劇〉というのは運命(必然性)に精一杯反抗した人間が最終的に運命(必然性)に敗北するところに成立するわけだから(See Peter Berger The Precarious Vision*2
The Precarious Vision: A Sociologist Looks at Social Fictions and Christian Faith

The Precarious Vision: A Sociologist Looks at Social Fictions and Christian Faith

さて、「音楽」だが、音楽はこの小説の至るところに鳴り響いている。ナッシュの車の中で、またナッシュとボッツィが押し込められる「トレーラー」の中でも。また、ナッシュは子どもの頃からピアノを嗜み、13歳の誕生日に母親から「ボールドウィンのアップライト・ピアノ」を買ってもらい、放浪生活を開始するまでそれを弾いていた。「音楽のおかげで世界がよりはっきり見えるような、目に見えぬ秩序のなかで自分の位置がわかってくるような、そんな気がしてきた」(p.18)。彼は「音楽」と偶然ならぬ必然的な関係を結んでいるともいえる。彼を放浪生活へ向かわせたのは「音楽」かも知れないのだ;

運転しながら、バッハ、モーツァルトヴェルディのテープをえんえん聴いていると、まるで自分のなかから音が湧き出てきて風景を浸しているような、可視の世界を彼自身の志向の反映に変えているような、そんな気持ちになってきた。三、四か月も経つと、車に乗り込むだけで、自分が自分の体から離れていく気になれた。アクセルを踏んで車をスタートさせるだけで、音楽が彼を、重さの存在しない領域へと連れていってくれた。(p.20)
また、この小説における最大の「偶然」である結末も「音楽」によって引き起こされるといっていい。ナッシュは車を運転するに際して、

ラジオはクラシックの局に合わせた。聞き慣れた音楽が流れていた。もういままで何度も耳にしている曲だ。十八世紀の弦楽四重奏曲のアンダンテで、一節一節全部諳んじているのに、作曲家の名前がどうしても決められなかった。モーツァルトハイドン、ということころまではすぐに絞れたものの、そこから先へはどうにも進めなかった。モーツァルトかな、という気になったのもつまのま、すぐ次の瞬間には、いやいやこれはハイドンだろうと思ってしまう。ひょっとしてモーツァルトハイドンに捧げた四重奏曲のどれかだろうか。あるいはその逆かもしれない。そのうちに、二人の作曲家の音楽が触れあっているような気がして、それからあとはもう、二人を区別するのは不可能だった。とはいえ、ハイドンは天寿を全うし、数々の作曲依頼、宮廷音楽家の地位、その他当時の世界で望みうるあらゆる栄誉と恩恵を受けた。一方モーツァルトは極貧のうちに若死にし、死体は共同の墓穴に投げ込まれた。(pp.315-316)
しかし、同乗していたマークス・カルヴァンがラジオのスイッチを切って、「突然の静寂」が訪れたことが結末に直結するのだ。
さて、この小説には


捨てるor解体する/集積するor構築する


という対立が働いているようにも思える。〈捨てるor解体する〉を体現しているのはジム・ナッシュである。彼は父親に捨てられ、妻に捨てられ、職業を捨て、家を捨てる。彼がボストンの家を引き払う際の描写の印象が強かった;


(前略)その後の五日間は事務処理に費やし、大家に電話をかけて新しい間借人を探してくれと告げ、家具を救世軍に寄付し、ガスと電気を止めて、電話も外した。こうした行為の向こうみずさ、乱暴さが彼にはひどく心地好かったが、それにしたところで、ひたすら物を捨てまくることの快楽の比ではなかった。最初の晩に、数時間かけてテレーズ*3の持ち物を集め、片っ端からゴミ袋に詰め込んだ。やっとのことで、彼女をきれいさっぱり消し去るのだ。彼女の存在の痕跡を少しでも残すすべての物の集団埋葬。彼女のクローゼットから、コートやセーターやドレスを次々引っぱり出した。下着、ストッキング、アクセサリーの詰まった引出しもみんな空にした。アルバムから彼女の写真を一枚残らずはがした。化粧道具やファッション雑誌も全部捨てた。彼女の本、レコード、目ざまし時計も水着も手紙も、一切合財処分した。これが言ってみれば引き金となって、翌日の午後に自分の所持品に目を向けたときも、同じ徹底的な野蛮さでもって行動し、おのれの過去を、ただひたすらに葬り去るべきガラクタとして扱った。台所にあった物すべてが、南ボストンにあるホームレス収容所に送られた。本は上の階に住んでいる高校生の女の子にプレゼントした。野球のグラブは向かいの小さな男の子にあげ、レコードのコレクションはケンブリッジの中古レコード屋に売った。これら一連の処置には、ある種の痛みが伴っていたが、そうした痛みをナッシュはほとんど歓迎するようになっていた。その痛みによって自分が高められるようにさえ思えた。かつて自分であった人物から遠ざかれば遠ざかるほど、未来の自分はよりよく生きられるような気がした。頭に弾丸を撃ち込む度胸をやっと見出した気分だった。だがこの場合、弾丸は死ではない。生だ、新しい世界の誕生の幕を開ける炸裂だ。(pp.17-18)
他方、〈集積するor構築する〉を体現しているのはウィリアム・フラワーとウィリアム・ストーンのコンビだろう。ストーンは屋敷の「別棟」に街の巨大な「ミニチュア模型」を作っている。これに対して、ナッシュは「薄気味悪い全体主義世界の模型」(p.131)として嫌悪感を覚える*4。フラワーは部屋を「まったくの雑多な、見当外れもいいところの、まるっきり意味のないコレクション」(p.125)を展示する「無の精神に捧げられた、狂える殿堂」にしている。さらに、2人はアイルランドの破壊された15世紀の城の石を買い取り、米国の自分たちの敷地に運び、それによって壁を建てようとする。ポーカーに負けて一文無しになって、フラワーとストーンに借金を負ってしまったナッシュとボッティは、借金を返すために、野原の中に石を積み壁を建てることになる。〈捨てるor解体する〉ナッシュが〈集積するor構築する〉ことになるのだ!*5 だが、小説が偶然に終わってしまう(打ち切られてしまう)ことによって、〈壁〉は中途半端なまま残されることになる。

この本には小川洋子が「ジム・ナッシュの墜落」という文章を寄せている(pp.327-329)。〈悲劇〉に引き付けて読みすぎ!

この小説は一貫してジム・ナッシュの視点によって語られている。ところで、偶然にジム・ナッシュの生の中に入り込んできて、偶然に彼の視界から消えてしまうジャック・ボッティの視点からは、この小説はどのように書き換えられるのか。そういうことを思った。

*1:そのとき、彼はタクシー運転手をしていた。

*2:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070708/1183895661 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080924/1222265652

*3:彼を捨てた妻。

*4:このエピソードは、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101213/1292264882で述べた社会的世界を「与件化」することの不可能性という問題に関わっている。

*5:日本人なら誰でも〈賽の河原〉を想起するだろう。