- 作者: 土佐昌樹
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2008/12/16
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承前*1
土佐昌樹『アジア海賊版文化』からのメモ。
岡倉天心の「アジアはひとつである」を巡って;
岡倉天心については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080904/1220533385も参照のこと。
(前略)これは決して文化的多様性を無視して政治的統一を訴えたものではなかった。それは、アジアの諸文明が日本においてたまたま堆積・融合することになった歴史を意味し、いまの言葉でいえばハイブリッドなネットワークとしてのアジアを指していたのである。つまり、島国としての地理的・歴史的孤立が日本をして「アジアの思想と文化を託する真の貯蔵庫とした」のであり、アジアの多様性を統一した日本の特性を「複雑性のなかの統一」と呼んでいる。
そうした文化的ハイブリッド化は、いまや日本だけの条件ではなく、アジア各地で日常的に目撃できるようになった。戦後のアジア(少なくともその一部)は、平和と経済成長を享受することで、活発な文化交流の成果を自らのなかに蓄え、そして「韓流」のように創造的なプロセスへと高める段階に入ろうとしている。そうした意味における多様性のなかの統一を問うことは、岡倉の時代よりはるかに身近な問題になっている。
岡倉のメッセージでもうひとつ引き継ぐものがあるとすれば、それは「愛」を通じたアジア観である。岡倉によれば、「究極普遍的なもの」に対する愛こそがアジアをして文化的断絶を乗り越えさせるものだという。そこには欧米の功利主義に対する対抗意識が働いていたが、愛こそがすべての世界宗教の母胎たるアジアを特徴づけており、そうした無償の感情を離れてアジアが「ひとつ」になることはあり得ないという。
こうした情緒的絆から共感の可能性を模索することが、近代的な教育を受けた戦後知識人はすこぶる苦手である。しかし、戦前のアジア主義のころとは前提の異なる二一世紀において、そうした可能性をもう一度慎重に考えてみることは、決して無駄なことではないと思う。(pp.206-207)