Est il don?

内田樹「自立と予祝について」http://blog.tatsuru.com/2010/11/08_1254.php


内田氏の『ひとりでは生きられないのも芸のうち』が文春文庫に入るという。このエントリーは文庫版のために書かれた「あとがき」の抜粋。
まあ、これは〈なさけはひとのためならず〉という諺を共有している限りで誰にでも理解可能なことだろうし、常識的に妥当だということができるだろう。
それにしても、


srs656a1htn @内田樹 お得意のカルト教祖的説法。状況の悪化を嘆き、原因を個人に帰結させておきながら夢想的な改善策しか示さず、不安感や罪悪感を煽る。「贈与と返礼が活発に行き交っている場」が簡単に分かれば誰も苦労はしない。 2010/11/0
http://b.hatena.ne.jp/srs656a1htn/20101108#bookmark-26328229
というコメントはひどいぜ。そんなの、内田的な理路からすれば、〈隗より始めよ〉ということになる。その一方で、内田氏のというか「贈与」論一般が孕むより重要な問題に気づいているのはMidasだけなのだった*1。何故、多くの場合「贈与」が回避されて、交換とか売買というような様式が選択されるのか。内田氏のいう「贈与」ははたして「贈与」なのか。或いはそもそも「贈与」は可能なのかどうか。
斎藤慶典『デリダ なぜ「脱‐構築」は正義なのか』から少し引用してみる;

(前略)この贈与は、それが私の具体的な行為であってはじめて贈与たりうるものである以上、そのようなものとして現象し・あらわとならざるをえない。そうでなければ、それは「何」を贈与したことにもならないからである。「何」ものも贈与しない贈与は、贈与たりえないのだ。
だがそれが何ものかの贈与として姿を現わし、おのれを全うしたかに見えたそのとき、それはみずからを破壊せざるをえない。あらわとなった贈与は、それを受け取る者に「贈与された」という負債を残してしまうからだ。「贈与された」という事実は、単にそれが事実であるだけで、すでに負債なのである。私が人から何かを贈られた場合を考えてみればよい。それが純粋に好意からであり、それが無償のものであればあるほど、私はそのような恩恵を被ったことを銘記せざるをえない。すなわち感謝せざるをえないのであり、そうしないことは忘恩なのだ。これが、一種の負債(私が人に負っているもの・こと)でなくて何であろう。このようにして贈与は、それが贈与としてあらわになったとたんに、みずからを破壊してしまうのである。
贈与はそれが贈与であるためには、むしろ相手の忘恩をこそ望まねばならないのだが、私たちの現実において「忘れること」はそれを「覚えていた」からこそ可能となる以上、すでに負債は成立してしまっている。(略)たとえ匿名で贈与したとしても、誰かに贈与されたという事実はあらわとならざるをえず、そうであれば負債はすでに成立してしまっている。すなわち、事態は根本的に何も変わらないのだ。
そうであればむしろ、相手に可能なかぎり負債を残さない方途こそ(あるいは負債を「感じさせない」と言った方が正確なのだが)、よりよい(お望みなら「より正しい」)贈与たりうるのではないか。そのためには、どうすればよいだろうか。相手に十分支払い可能な範囲で、贈与さるべきものを「売れ」ばよいのである。負債にあたる価格を支払うことで相手は、負債から解放される(正確には、解放されたと「感ずる」)ことができるからだ。ここに(ふたたび)、現象するものの支配原理たる力と力のやり取り、すなわち「エコノミー」が登場する余地があるのだ(この「エコノミー」の内には、他者に「権利」を認めることも含まれる。権利はそれを行使・追求することが「当然」であって、そこに何らの恩恵を感ずる必要もないからである。だがそのためには、この権利は「天与の」ものでなければならない。それを私が、あるいは私以外の誰かが付与したのであれば、ふたたび負債が発生してしまうからだ。したがって権利は、私をも含めて「万人に」与えられたものでなければならない。だが権利は、必ず「義務」をともなうのではなかったか*2。そうであればそれは「ギヴ・アンド・テイク」であり、すなわち「エコノミー」なのである)。
このようにしてでも、すなわち贈与を破壊することになってでも、贈与を追求すべきなのである。いや、そのような仕方でしか贈与を追求することはできないのだ。贈与するためにはエコノミーにチャンスを与えなければならないのであり、すなわち商売しなければならないのである。「贈与すること」と「商売すること」とは、もともと両立不可能である。だがそれにもかかわらず両者のいずれをも手放すことなく、すなわちどちらか一方へと他方を吸収することなく両者を維持することのみが、正義でありうるのだ。(後略)(pp.109-112)
デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

これについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071121/1195614055http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091120/1258688054も参照いただくとして、内田氏のテクストに戻れば、もし「贈与」しようとする人が内田氏が書いているようなことを意識したとすれば、それは既に「贈与」ではなくなるだろう。また、内田氏は「贈与」ということを言わずに、寧ろ〈リベラルのすすめ〉という感じで語っていけばよかったのかも知れない。鷲田清一先生がいうように、liberalの本義は気前がいいということである(「解説」堀江敏幸『河岸忘日抄』新潮文庫、pp.405-406)*3
河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

*1:http://b.hatena.ne.jp/Midas/20101109#bookmark-26328229

*2:仏蘭西語においてobligationは負債、債券も意味することに注意されたい。

*3:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080831/1220155395